第十六章「婚前の夜明け」第二百九十六話
"ユリナ。あの人を、オクタウィアヌスを護ってくれてありがとう……"
"はぁ?!そんな事を言うために、わざわざこんな流刑地まで、あんたはやって来たわけ?ええ?!リウィア?!"
"ええ、貴女には感謝してもしきれないから……"
"あたしは!母ユリヤの代わりに、貴女を殺そうとしたのよ!それなのに感謝ですって?!"
"ええ"
"気取ってなさいよ!"
でも信じられる?大母后リウィア様は、私の前で、吹きっさらしの砂利道で両手をついて泣き出したのよ。あたしが母のように祖父アウグストゥスではなく、大母后リウィア様だけを殺そうとしたから感謝ですって。最初は頭がおかしいじゃないかと思ったくらい。
"だいたい、何で私が祖父を護った事になるのよ!?護っているなら、こんな所に私がいるわけないじゃない!"
"ユリナ、貴女は私だけが憎かった。そうなんでしょう?"
"そ、そうよ!お祖父様が憎いわけないじゃない!ユリヤ母さんから、スクリボニアお祖母さんから、お祖父様を寝取ったあんたが憎くて憎くて堪らないのよ!!それだけじゃない!あんたのことを心から尊敬し、憧れていた妹ウィプサニアの想いも踏み躙ったのよ!あんたさえいなければ!私達家族は平和だったのよ!"
"ええ、貴女が言っていることは間違っていないわ"
だけどね、ウィプサニア。
あの女狐大母后リウィア様はね、ちゃんと言ってのけたわ。私の前で堂々とね。
"私もオクタウィアヌスに父親の命を奪われた一人"
"そ、それが何よ!"
"あの人は、私のずっと奥に隠していた憎しみも知っていた。でも、私はもっと知ってしまった。自分が父親の娘である前に、前の旦那との子を宿した母親である前に、憎しみも抱えた人間である前に、あの人を愛してしまった、一人のいやらしい女であることを……"
その時気が付いたの。
ユリヤ母さんは、自分の大好きなオクタウィアヌスお父さんを、大母后リウィア様に奪われて、ずっと娘として嫉妬していただけだって事を。
"ユリナ、私を一生憎んで。私は憎まれて当然な女。娘として父を裏切り、妻として元旦那を裏切り、母親として息子達を裏切って、女として、オクタウィアヌスとの安らぎを求めたのだから……"
"どうしてあんたは、そこまでするわけ?"
"笑って頂戴。愚かな事だけど、私は今でも、オクタウィアヌスに恋をしているのよ。あの人よりも先に死ぬなんて絶対嫌。冥界まで行って、嫉妬なんかしたくないもの!"
笑っちゃった。
母から植え付けられた憎しみの対象だった女狐が、まるで初恋をする乙女のように、瞳を輝かせて祖父アウグストゥスの話をしてるんだから。その後何度も、お忍びでここまでやってきて、私を励ましてくれた。娘を生んでも祖父に拒否された時、何度も私に励ましの言葉を掛けてくれた。
"ユリナ。辛くなったら、私を憎めばいいじゃない。ね?だから、頑張ろう"
"リウィア様。あたしね、もう、貴女の事を憎むの疲れちゃったみたい"
"ユリナ……"
そして、信じられないような話だけど、大母后リウィア様は、二十年の間ずっと援助もしてくださった。だから分かるの、ウィプサニア。大母后リウィア様は、ゲルマニクスを喪った、貴女の悔しさも悲しさも憎しみも、全部抱えてくれるって。だから貴女がどんなにティベリウスや大母后リウィア様を憎んでも、母さんや私のように、流刑になることなく、ゲルマニクスの可愛い子供達と共に生きてこれたのよ。
私は満足ではありませんでした。
けれどウィプサニア、貴女にはこれだけは言えます。決して流刑になるような事だけは避けなさい。今の貴女には分からない事かもしれないけれど、自分の産んだ子供達に会えない寂しさは、この世の地獄と言えるでしょう。そしていくら自分を恨んで罰して憎んでも、二度と自分を許すことはできないのです。だからこそ、ゲルマニクスの子供達を守る為に、貴方は聡明になって生きるのです。
もう、愚かなことはやめなさい。
必要以上に愛するゲルマニクスの面影や思い出を穢し、自分を守ってくれている養父のティベリウスや親達を、そして何よりも貴女自身を、これ以上穢す必要はないのだから。あの優しいゲルマニクスが遺してくれた子供達こそ、本当の貴女を救ってくれるはずなのだから。
例えそれが、貴女が昔に約束してくれた、私を救う為のローマ奪還だとしても。私はもう長くは生きられない。だから、今度生まれ変わったらまた、ストラの着せ替えっこしようね。お姉ちゃんのお気に入りのやつ、今度は思う存分、あんたに着せてあげるから。
私の大好きな大好きなウィプサニア。本当にごめんなさい。そして、ありがとう。さようなら……。
続く