第十六章「婚前の夜明け」第二百九十四話
母はユリナ様の遺言書に発狂した。
オキア様にあれ程言われたのにも関わらず、抑えきない感情を露わにし、誓いも忘れ、大母后リウィア様の陰謀であると叫んだ。
「アントニア」
「はい、大母后リウィア様」
「私はウィプサニアに、何ができるのかしら?」
母は憎しみを剥き出して走った。
聖なる道ヴィア・サクラを走り抜け、大母后リウィア様と祖母アントニア様のいるドムスへと。
「歪んだ心を、救うことだけだと思います」
「昔のウィプサニアは、健気で私の言う事ばかり聞いていたのにね」
「きっと、ウィプサニアは、大母后リウィア様の前では素直過ぎたのかもしれませんね」
「いいえ、アントニア。私の愛するあの人が、厳し過ぎたのよ」
"なぜオクタウィアヌス?娘ばかりでなく、自分の孫までも、どうしてそこまで厳しくされるのですか?"
"リウィア、血を分けた者が罪を重ねた時、それはいくら親であっても子であっても、孫であっても、その罪を償う必要がある"
"でも、貴方の大切な子どもや孫ではありませんか!"
"だからだ、リウィア。自分の父親を僕に殺されたも同然であるのに、君は僕を裏切る事なく、慎ましくローマの法を守って生きている"
"わ、わたしは……"
"いいんだよ、リウィア。今でも君の心の何処かに、僕への憎しみを隠していたとしてもだ"
"……"
"だが、恵まれている筈の我が娘や孫は、自分の夫を裏切り、邪悪な者たちの口車に乗せられた。運命とは気まぐれだが、人の生き方には努力が必要なんだ"
"オクタウィアヌス……"
"分かるだろう?リウィア。平和とは悲しいほど、誰にとっても我慢と努力でしかないんだ"
「オクタウィアヌスは、私以上に私の心の闇までもを理解していた。そんな私さえも、決して疑うことなく、生涯愛してくれたの。自分一人では達成できない、泰平の世を望むためにね」
「お義母さん……」
「けれど、いつの世でもそう。親と子の心は、望もうと望まぬともすれ違ってしまうもの。あの人の子ユリヤ、そして孫のユリナにとって、自分達の親に求める強い愛情こそが、生きて行く証だったのかもしれない」
奴隷達を払いのけ、母は右手に握りしめたパピルスの遺言書をなびかせながら、大声で何度も大母后リウィア様の名を呼び捨てにして叫んだ。今まで信じてきた憎しみの対象を、まるで壊されたくないように泣きじゃくりながら。
「そしてウィプサニアもまた、自分の母親や姉を強く想う事が生きる証であり、私を心から憎む事で、ずっと心のバランスを取ろうとしていたのかもしれない」
「私の息子ゲルマニクスの死によって、その憎しみは膨れ上がり、いつしか自分の母親や姉と同じ道を辿っていた事さえも忘れて」
ようやく母が、大母后リウィア様と祖母アントニア様のいる居間へ辿り着く。呼吸も荒く、くしゃくしゃになった泣き顔も隠さず、悔しさを歯ぎしりに込めて。
「ウィプサニア……?!」
「リウィアぁああ!なぜ!?」
「……」
「な、なぜ?!どうして姉を?!」
そして母は大粒の涙を流し、まるで駄々っ子の子供のように、自分の姉の遺言を床に投げ捨てて、叫び声をあげた。
「今まで救っていたのですかぁぁ?!!!」
床に投げ捨てられた遺言書には、母への言葉がこのように書かれていた。
"最も愛していたウィプサニアへ。母を心から愛した私を、そして大母后リウィア様から救われた私を、心から許して……。"
続く