第十六章「婚前の夜明け」第二百九十三話
長男と愛人という二人の臆病者達が、明け方まで葡萄酒に呑まれていた頃。
「一体、いつまで掛かるわけ?」
母ウィプサニアは一睡も眠れない様子だった。ずっと寝室のベッドではずっと座ったまま、壁の一点を見つめて貧乏揺すり。そうかと思えば、部屋の隅から隅を行ったり来たり。
「お母様、少しはお休みになった方が?」
「休めるわけないでしょ?!ドルシッラ、葡萄酒を持ってこさせて頂戴」
「はい、お母様」
母の姉ユリナ様の遺言譲渡には、女神ウェスタへの赦しを頂くための祈りと儀式が必須であった。それを抜きに、相続人へ手渡される事はない。母が焦っていたのは、遺言の存在自体よりも、その文面に書かれた内容である。
"殺された否か?"
生前ユリナ様の周りでは、皇族らしからぬ黒い噂が立っていた。ご自分の母親が、元首に対して陰謀を企てた罪で流刑となり、ユリナ様も仇討ちをするため、元首への不義を繰り返したというのだ。だが、母はずっと信じていなかった。
"全てはリウィアの陰謀なのよ!"
それが嘘か誠か?
全ての家族を喪った母は、大母后リウィア様への憎悪を燃やし、自分の姉が遺した遺言一枚に、ローマ奪還を賭けてしまった。その無謀で愚かな思いが、私達子供を危険にさらしているのにだ。
「ウィプサニア、終わりました」
「ああ、オキア様!で?姉の遺言は??」
「先ずは焦る気持ちは抑えなさい。幼いながらも、貴女の為に、しっかりと儀式を行った、彼女達巫女への感謝が先です」
子供とは呑気なもので、母と対立してた私は、まるで親から叱られている母の姿が滑稽に見えた。暫くすると、ウェスタの巫女達は、丸く巻かれたパピルスの書簡を、ゆっくりとした歩速で丁寧に持ってくる。止め場所は厳重にユリナ様の印が押してある。つまり中身は誰にも見られていない。
「ウィプサニア、貴女にこれを手渡す前に、主神ユピテルと女神ウェスタに二つの事を誓いなさい」
「誓う?何をですか?」
「一つ、この遺言書が姉であるユリナが書いたものであることを。そして、もう一つは、如何なる文面が書かれたとしても、死者の言葉に従う事を」
「……」
「この二つ条件は、アントニウス様の遺言書を持ち出した、あのリウィアも誓ったわ。誓えなければ、いくら貴女が血を分けた姉妹であっても、これを渡すわけにはいかない」
「当然誓います!姉がリウィアの仇討ちをしろと懇願していれば、私は迷わず行います!」
「その反対でも?」
「……」
「あの子達の親ならば、約束を破るような姿を見せないことね」
「分かりました」
母はオキア様の前で跪き、右手を空高く上げ、左手を水平に前へ出して誓いの言葉を述べる。オキア様は母の前に立ち、ラテン語で主神ユピテルと火床の女神ウェスタに祈りを捧げた。そして巫女たちがオキア様へ遺言書を渡し、母の左手に遺言書が届けられる。
「ユリナ姉さん。今、ようやく貴女の無念を晴らす時が来ました」
ついに封じられた印が剥がされ、パピルスのざらついた音が絡み合う。ユリナ様の遺言書を開いた母に待っていた運命は、思いがけない事実であった。
続く