第十六章「婚前の夜明け」第二百九十二話
私達がウェスタの巫女の館で、母ウィプサニアの心の闇に迫ろうとしてた頃、アシニウス様と長男のネロお兄様は、母の企てた無謀なローマ奪還計画に頭を抱えていた。
「アシニウス様、それは本当ですか?!」
「ああ。君の母君は、今こそゲルマニアにあるローマ軍団を、ティベリウス皇帝が不在するこのローマへ向かわせるようにとの事だ」
「そんなの無茶苦茶だ!そんな事をすれば、国家反逆罪で吊るし上げですよ!」
「ここに彼女がサインした書簡もある」
ネロお兄様のドムスのアトリウムで、アシニウスは母から持たされたパピルスの書簡を渡す。スルスルとめくるネロお兄様は、その筆跡とゲルマニアに駐屯するローマ軍団への無謀な命令に驚愕した。
「確かにこれはお母様の筆跡です。一体何の根拠があって?」
「ウィプサニア殿の姉、ユリナさんが亡くなられ、その遺言には、大母后リウィア様が、実の息子をに帝位させる為の陰謀となる証拠が書かれてるそうだ」
だが、ネロお兄様はいたって冷静。
感情的な起伏の激しい母に、今まで振り回されていたお兄様は疑った。
「それって本当なのですか?」
「ウィプサニア本人は間違いないと言ってるし、自分の姉の死も、全て大母后の仕業と考えている」
「アシニウス様は、どのようにお考えなのですか?」
「私も、君と同じように無謀だと思っている」
アシニウスの応答に、ある程度の安堵感を持つネロお兄様。だが、懸念材料は更に続いていた。
「しかし、こんなことが弟のドルススの耳に入れば、すぐにセイヤヌスの配下達が我々を取り囲みます」
「幸運にも、ドルスス君はそばにいなかったがな」
「良かった……。彼奴がいたら、もっとややこしい事になりかねない」
しかし、この二人は、母の言うこと聞くべきか否か、断崖絶壁という瀬戸際に立たされている事は間違いなかった。もし、母の主張を鵜呑みにしてローマ軍団を動かせば、再びローマ内戦の時期が訪れる。もちろん確実にローマの帝位奪還をできる保証はない。だが、もし、母の主張に反旗を翻し、仮に遺言に証拠となる文面が無ければ、母は国家反逆罪として確実に処刑されることになる。
「アシニウス様。指導的市民な元老院議員として、この場合は如何に対処すべきか、ご教示願えませんか?」
「……。ネロくん、それは私が語ることではないと思う。これは牛魔皇帝率いるクラウディウス氏族と、君が筆頭となっているユリウス氏族という、二つの家柄同士の争い。時として、どんな苦境に立たされも、指導者としての器量で決断をしなければならない」
「指導者としての器量……」
「それにアシニウス氏族の私が、口出すことでは無いだろう」
二人の間に重苦しい空気が流れると、ネロお兄様の妻である高慢ちきのリヴィアが、お二人に葡萄酒を持ってきた。あのセイヤヌスに唆され、ご自分の夫ドルスッス叔父様を毒殺したリウィッラ叔母様の長女。
「ピッツィノ葡萄酒は、いかがですか?」
「とりあえず、飲みますか?アシニウス様」
「そうだな、ネロくん。それから考えても遅くはないだろう」
「どうしたの?お二方」
その後二人は、自分達の苦境を忘れ、明け方まで浴びるようにピッツィノ葡萄酒を飲んでいた。お陰で、ネロお兄様に託された母の書簡は、運悪く高慢ちきリヴィアの手に渡ってしまった。
「な、何これ?!」
続く