第十六章「婚前の夜明け」第二百九十一話
「確かにウィプサニアが指摘した通り、リウィアはあの時にアントニウス様の遺言を持ち出した人物。けれど、それは現在とは状況が違います」
「しかしオキア様!それではある特定の人物に対して、贔屓を……」
「いいから最後まで聞きなさい、ウィプサニア。リウィアにアントニウス様の遺言を渡したのは、この私なのですから」
衝撃的な発言だった。
だが、静かに母ウィプサニアを諌めるオキア様は、決して瞬きをせずに事実を述べようとしていた。
「私達ウェスタは確かに政治的な事には干渉しませんし、ローマ市民にとって最後の良心を護る為、火床の女神に全てを捧げております。しかし、ローマの民に飢餓が訪れているのであれば、最後の良心を開く状況は大きく変わってきます」
当時から六十一年も前、父方の曾祖父アントニウス様が、エジプトの蛇女クレオパトラと結託され、ローマへの穀物供給へ制限をかけていた。ローマを護る母方の曾祖父アウグストゥス様は、小麦食物に関わる価格が高騰する現状に、なす術が無く頭を抱える。多くのローマの民は飢餓に苦しみ、何度もエジプトへ訪れた共和政元老院議員も、アントニウス様からその度に掌を返されていた。
「貴女は自分の子供達が空腹な時に、これは掟であるからと、自分だけの食欲を優先できますか?」
「……」
もはや国家を傾けるほどの有事になり、アウグストゥス様は民衆および元老院を扇動するため、アントニウス様をローマの裏切り者と糾弾。だが、一部の共和政元老院議員から、その証拠を求められた。その為にはどうしてもアントニウス様の遺言開示が必要に迫られていた。
「いい?遺言の内容は、私を含めてオクタウィアヌスやリウィアにだって分からなかったの。もし、アントニウス様の遺言にローマ裏切りの証拠となる文面が無ければ、オクタウィアヌスもリウィアも処刑は免れなかったでしょう」
そしてアントニウス様の遺書には、ローマが征服した地域は自分とクレオパトラの子に受け継がれるべきで、自分の墓はエジプトに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきであると書かれていた。
「でも、それは自分達の権威を高めることやエゴの為ではなく、価格高騰で飢餓に苦しむローマの為に、彼ら二人は自分達の命を投げ打ったのです」
母はオキア様の語る信念に、閉口して目を床に落として俯いた。私達子供達も、曾祖父や曾祖母の凄まじい命懸けの生き様に圧倒されてしまった。
「ウィプサニア。どうして貴女は、そうまでしてリウィアを憎むの?」
「……」
「幼かった頃の貴女は、誰よりもリウィアを慕っていたじゃない」
えええええ?!
この母が?!今ではすっかり憎悪の的としている大母后リウィア様を、昔は慕っていたなんて?!
続く