第十六章「婚前の夜明け」第二百八十七話
母の頬を叩いた右手は、今まで鬱積されていた母への不満や怒りで、拳を握り締めていた。
「あのアエノバルブス家は!アントニア様の奴隷だったアクィリアを!無残にも殺したドミティウス氏族です!そんな野蛮な人の血を持つ人と、お母様は私に結婚しろと言うのですか?!」
「誰よ?そのアクィリアって。たかが奴隷じゃない!」
あたしは母の言葉に、自分の耳を疑った。お父様が私に遺してくれた、唯一人道的な精神を、母はまるで下水道にでも吐き捨てるように言ったからだ。
「はぁ?!ゲルマニクスお父様が生きてた頃は、決して奴隷にだってそんな扱いはしませんでした!」
「時代が違うのよ、アグリッピナ!」
「時は変わろうとも、変わらぬ思いはあります!」
「貴女は子供で、しかもあたし達と一緒にいなかったから何も分かってないのよ!あの人の暗殺を計画したピソは、私達の奴隷を買収して毒を盛らせたの!」
父様を喪ってから、お母様の考え方は変わってしまった。奴隷に対する扱いもだ。後でクラウディウス叔父様が調査した結果では、お父様の奴隷が毒を盛ったというのは、お母様の勘違い。
ゲルマニクスお父様は原因不明の病に倒れただけだった。
「大体そんな事ぐらいで、生意気にも自分の母の頬を叩くなんて!?あんたの方がよっぽど野蛮じゃない!」
「野蛮なのはお母様方です!自分の娘が不幸になる事が目に見えてるのに!なぜわざわざそんな事をするのですか?!」
あたしは頑として譲らなかった。
これは自分の信念の問題だからだ。奴隷だとしても、まるで使い捨てるような人間の血を、あたし自身が受け入れることは、例え冥界の神に呪われても絶対に無理だったからだ!
「アグリッピナ!あんたがそこまで偉そうに親へ楯突くには、それ相応の覚悟もしているのでしょうね?!」
「ええ、もちろんです!あんな野蛮なアエノバルブス家と結婚するくらいなら、あたしは一人ででも生きていきます!」
「はーん?!やれるものならやってみなさいよ!どうせあんたなんて、世間知らずの箱入り娘なのだから!地下下水道クロアカ・マキシマで生活するのがオチよ!」
悔しかった。
アクィリアが正にその地下下水道で育ってきたからこそ、それが現実である事が分かっているからこそ、尚更悔しさが込み上げてくる。でも絶対に涙を流したくなかったし、母には負けたくなかった。
「あたしが結婚しなければ!困るのはお母様の方じゃないかしら!?」
母の逆鱗に触れた。
そして目と歯を剥き出した母から、私は何度も頬を殴ぐられた。それでも、首の上で頭を吹き飛ばされても、謝ることはしたくない。だって、痛さなんかより、怒られて悔しい気持ちより、もっと確実な事が分かったから。
「殴りたければ、何度でも殴りなさいよ!身内や親戚がめちゃくちゃになったのは、全部お母様のせい!お父様が死んだのもお母様のせい!!」
「?!」
すると、さすがに見兼ねた兄カリグラが、あたしと母の間に入った。母はそれでもいきり立って、無理矢理あたしを叩こうと迫ってきたが、あたしはワザと顔を突き出して、母へ嘲笑して見せる。
「アグリッピナ!お前いい加減にしろ!いくらなんでも言いすぎだ!お母様も、落ち着いて下さい!」
「これが落ち着いていられますか?!あの人を殺したのが!このあたしだと、そこのバカ娘は言ったのよ!!我が家の恥知らず!いいえ、もう娘でも何でもありません!」
「アグリッピナ!お母様に謝るんだ!」
「いや!絶対に嫌!!誰が謝るものですか!」
今考えれば、あたしは何も誰からもお咎も無く、この後よく生きていたと思う。母を父殺し呼ばわりした、不埒至極な女だったのにも関わらず。だが、この時の、婚約を巡る母との赤ら様な対立こそ、もう一人のあたしが目覚める瞬間でもあったのだ。
続く