第十六章「婚前の夜明け」第二百八十五話
大母后リウィア様が、ティベリウス皇帝が隠遁生活を送るカプリ島へ出向く頃、ローマから北に離れた小都市フィデネで大規模な事故が起きた。
剣闘士試合を禁止していた皇帝にとって、それは正に寝耳に水の大惨事。剣闘士の試合に飢えていた庶民の多くが詰めかけ、通常の収容人員をはるかに超え、木造建築の円形闘技場客席は崩壊してしまったのである。
「セイヤヌス、とにかくフィデネだけでなく、周辺の街からも医師達を総動員させ、治療に当たらせるのだ」
「分かりました、陛下。ところで死者への葬礼費用はいかがいたしましょう?」
「それは公費で十分賄える。大体、今回の大惨事を招いた原因はなんだ?」
「主催者側の安易な金儲けと、安全保障されていない建造方法に原因があるのかと」
「よし、その二つは法制化し、直ちに元老院で決議させなさい」
「承知致しました」
穏やかな風が流れるカプリ島でも、大惨事に対する慌ただしさは、まるでローマの宮殿と大差はない。そのように大母后リウィア様は感じていた。
「てっきりあなたの事だから、全て部下に任せっきりかと思ってましたが」
「母さん?」
すっかり自分の母親が訪れてくることさえも忘れるほど、ティベリウス皇帝は激務に忙殺され働いていた。
「今は忙しいなら、もう一度出直しましょうか?」
「いいえ、せっかくのご足労。それには及びません。セイヤヌス!後は任せる」
「御意」
大母后リウィア様は、セイヤヌスの姿をジッと見つめている。大母后リウィア様の眼差しを受け、敢えて穏やかな笑顔と会釈でその場を離れるセイヤヌス。
「で、一体何の用なんです?書簡ではなく、わざわざいらしたからには、何か重大な事でもあったのでしょう」
「ええ、実は貴方からウィプサニアへ断って欲しいことがあるのです」
「ウィプサニアに?」
明らかに嫌悪感を交えた表情をしているティベリウス。だが、大母后リウィア様は構わず畳み込む。
「ウィプサニアは自分の長女アグリッピナを、アエノバルブス家の長男グナエウスと婚約させようとしているの。それはアグリッピナにとって、あんまり良くない婚前になるわ。だから、貴方から断って頂戴」
二人の周りでは、五千人近くの負傷者を出した大惨事に対応すべく、忙しなく皇帝の部下達が動き回ってる。そんな最中の実の母親の提案に対して、皇帝は飽きれた様子だった。
「今はどんな状況だか、母さんは分かりませんか?」
「分かっているわよ」
「なら、そんなつまらない事で、いちいちここまでいらっしゃること、ないじゃありませんか」
「つまらない事ですって?女性にとっては自分の一生を左右する問題なのです」
「それこそ書簡で伝えて頂ければ、十分な事です」
「書簡で伝えたところで、貴方は私の真意を読み取る事は無理でしょう?」
皇帝は実の母親の実力は、確かに心から敬っている。だが、しかしである。時として浮世離れした発言には、顎を砕かれる思いだった。
「いいじゃないですか、母さん。ウィプサニアの言う通りにさせてあげたらどうです?」
「な、何を言うのです?!」
「ウィプサニアの意図が何であろうと、アグリッピナとグナエウスが結婚すれば、家族一同で祝杯を挙げられるではありませんか。それこそ、母さんの望むことでしょう?」
大母后リウィア様は石のように口を閉ざした。我が子であるが故の感情が、今にも飛び出してきそうだからだ。
「大体、どうして母さんは、そこまでアグリッピナに肩入れするのですか?母さんやアントニアは、あのアグリッピナとかいう娘を可愛がり過ぎます」
「違うわよ。あの人の意思を、後世に伝える為に……」
「あなたはいつもそうだ!過去や未来ばかりを見つめ、現代はどこか浮世離れしている!」
「あたしのどこが浮世離れしているというの!」
「母さんは女性でしょう?なのに、なぜ今を見ようとしないのですか?!」
「息子の貴方に言われなくとも、現状はしっかりと見ています!」
「なら!今まで僕を、一度でも見ようとしてくれたことありますか?!」
その時大母后リウィア様は、ずっと母親の愛情に飢えている、年老いた我が子の愛くるしい眼差しを目の当たりにした。胸がつまり、息が苦しくなるほど、この子に愛情の逆恨みをさせてしまったのだと。
後日、母ウィプサニアの元へ、ティベリウス皇帝から一通の命が届く事になる。それは正に母が望んだ提案そのものであり、あたしがとことん拒否を示した命であった。
続く