第十六章「婚前の夜明け」第二百八十三話
なんて不自由なんだろう。
たかがお腹から血を流しただけで、結婚させられるなんて。突然襲ってきた川の流れに、身を流されるような気分。それなのに、残酷にもいつもと変わらない毎日が訪れる。いつものように右手の小指を咥えながら、膝に肘を乗せて、ぼうっとしていた。
「イッヒヒ、おい、おしめ女。今日も、真っ赤にお漏らしか?」
「別に、ガイウス兄さん」
「なんだ、つまんねぇな」
あたしは兄カリグラのからかいに対して、相手をすることも、ムキになって怒る事も馬鹿らしいと感じていた。今のあたしには、そんなちっぽけな誇りよりも、もっと重大な事がのし掛かっているんだから。次は末妹のリウィッラ。
「アグリッピナお姉ちゃん?ご夕食できたって」
「リウィッラか。あたしはいらない」
「え?食べないと、あたし全部食べちゃうよ」
「いいよ、あんたにあげるよ」
「お姉ちゃん……」
心配そうに眉毛を寄せてくれてるけど、ごめん、今は無理なんだ。そして次妹ドルシッラ。丁寧なこいつらしく、夕食に残った余り物を、解放奴隷にもう一度盛り付けさせて持ってくる。
「アグリッピナ姉さん、ちゃんと食べてね」
「……」
「いつまでもそんな風にため息ばっかり付いてたら死んじゃうよ?」
「いっそう死にたい」
「もう、女神メーナ様へお祈りしてる?ちゃんとしてないからそんな風に考えちゃうの」
「あんたにはまだ分からない事だから」
最後は母ウィプサニア。
でも、これは話にもならない。あたしには相手を選ぶ事はできないし、皇族は皇族同士で結婚するのがしきたり。つまりユリウスか、クラウディウスのどちらかの血を引いている者との結婚になる。
「そんなの当たり前でしょう。お母さんだって、そうやってあの人と結婚したのだから」
「はい」
つまりあたしがため息ばっかりついてる理由が、これではっきりしたのがお分かりでしょう?あたしの初恋の人、アカエア属州にある小国の王子アラトス様とは、どんなに頑張っても、結婚は不可能なの。そしてあたしはいっつも、最後には親友でセイヤヌスの長女ジュリアに泣きついていた。
「ジュリアーーーーー!」
「はいはい、アグリッピナ様。辛いですよね?」
あたしはジュリアの胸元でわーわー泣いて、ジュリアもあたしの頭を撫でながら、一緒に泣いてくれてた。
「なんで?ネェ、なんで好きな人と結婚しちゃいけないの?」
「本当ですね、アグリッピナ様。お気持ち察しますよ」
そう言われると、あたしは泣き止まないとって思う。ジュリアもクラウディウス叔父様のご長男と婚約までしていたのに、不慮の事故、と言うか余りにも間抜けであるけど、ナシを喉に詰まらせ亡くなった。その後は、ずっと再婚をしない祖母アントニアの力添えもあって、ウェスタの巫女のお手伝いをして再婚を拒んでいる。
「あたしもジュリアみたいに、ウェスタの巫女の仕事する」
「アグリッピナ様」
「好きな人と結婚できないなら、結婚なんてしたくない」
「困りましたね」
とは言いながらも、ジュリアは犬のように目を垂れさせて、にっこり笑ってくれた。ジュリアだけなのだ。心配する以上に、笑顔で元気をくれるのは。あたしのワガママにも付き合ってくれるのは。
「ねぇ?アグリッピナ様、お庭で木登りしません?」
「木登り?」
「そう。アグリッピナ様の大好きな大好きな木登り。きっと気持ちいいですよ」
「うん!」
あたしって単純だな。
でも、それで少し楽になった。木に登っていると、自分がとっても自由に感じていたからだ。未だに割り切れない感情は残っているけど。枝の間でジュリアと二人、爽やかな風に目を閉じていると、何だか悩みもそんなに悩む必要が無い感じがしてきた。
「アグリッピナ様、辛い時はいっぱい泣いてください」
「え?」
「そして、楽しい時にはいっぱい笑ってください」
「ジュリア」
「アグリッピナ様、貴女は生きているだけで、いっぱいの人を幸せにできる人なんですから。だから我慢しないといけない事がある人は、いっぱい泣いて、いっぱい笑ってください」
「うん、ありがとう」
ジュリアの言葉は本当に嬉しかった。
でも人生って本当に気まぐれでもっと残酷。あたしの結婚相手は、あの悪名高い、アエノバルブス家のグナエウス・ドミティウス・アエノバルブスになるのだから。
続く