第十五章「狂奔の調べ」第二百七十七話
最近のパラティヌス丘のフォルム・ロマヌムは、今日も静かだった。
都市に政治・宗教の広場であるフォルムの中心には、聖なる道のヴィア・サクラがある。その道から西へ進むと、フォルム・ロマヌム北西の端にあたる元老院の前に出る。共和制ローマの最高政治機関のバシリカ・ユリア。最初の元老院焼失後に、神君カエサル様が再建を決定し、当時から五十年前くらいに初代皇帝アウグストゥス様が完成させた。今日はその脇を祖母アントニア様が歩いている。ウェスタ道りからノヴァ通りへ曲がり、アポロン通りを進み、アウグストゥス様の宮殿裏にある大母后リウィア様のドムスへ到着した。
「アントニア、久しぶりね?」
「ええ、お義母さんも、本当にお久しぶりです。その後はどうですか?」
フラスコ画は随分と仕上がっていて、奇麗な淡い青色や緑色の自然風景画が、リウィア様のドムスを見事に彩っている。二人はドムスの中を歩きながら話していた。
「どうって、息子がカプリ島へ"家出"しているのよ。呆れて物も言えない。まるっきりロードス島の時と同じ事をしているんだから」
「あら?私はてっきり、お義母さんがカプリ島へ勧めたのばっかり思ってました」
「アントニアも随分と皮肉が上手になったわね?」
二人はお互いに支え切れない現実を前に、ただ微笑んで笑顔を見せ合う。
「母としてはそうしてあげたいけれどね、母后としては許されないことよ。ロードス島の時は、私が何とかしてあげたからいいものの……。」
奴隷達は大母后リウィア様の指示に従い、完成したばっかりのフラスコ画の傍に仮のベンチを置いた。そこへ大母后リウィア様とアントニア様が腰かけると、アントニア様は心配そうにリウィアさまの横顔を眺めている。
「どうするんですか?このまま放っておくのですか?」
「帰ってらっしゃい!って言っても、ティベリウスが素直に言う事を聞くような子じゃないでしょう?」
「あははは、確かに」
「それに、あの子はもう七十歳よ!?国家は機能しているのだから問題ないと判断したとはいえ、元老院議員や貴族や家族、ローマ市民だけでなく、全世界の属州や敵国には示しがつかないわ」
「"我が身を先に差し出して、人の壁となり橋となれ、されば光の道開かれん"今はそれしかないのでしょうね?」
「ふぅ、確かにそうね。オキア様の残された言葉の言うとおりだわ。」
二人にとって尊敬できる人物とはオキア神官長。火床の女神ウェスタに仕える聖職者団ウェスタの巫女達の長であり、巫女達を束ねる最高神祇官であった。
「それよりも、アントニアの周りでエトルリアの文明に詳しい人間はいない?」
「あははは、いますよ。エトルリア文明や歴史だけでなく、カルタゴまでも調べている馬鹿な息子が」
「息子?」
「ええ、クラウディウスですよ」
ようやく大母后リウィア様も、クラウディウス伯父様の開花された才能を、今は素直に認めざるを得なかった。大母后リウィア様はベンチから立ち上がり、いつもの癖で人差し指を唇において推敲している。
「突然どうしたんですか?エトルリアの文明なんかに興味を持たれて」
「セイヤヌスがピラトゥスから『教祖』と呼ばれていたのを、コッケイウス家のネルウァが聞いたのよ」
「『教祖』?」
「それだけではないわ、"我ら、一羽の鷲が主の帽子を持ち去り、その鷲が再び帽子を主に返す事を待つ"と、去り際に合言葉のように暗号みたいなものを交わしていたらしいの」
「なんですか?それ」
「ローマ五代目王タルクィニウス・プリスクス様のエピソードの一つよ」
「それがエトルリアと何の関係があるのです?」
「タルクィニウスはエトルリア出身の初のローマの王よ」
押さえていた人差し指をはっきり祖母のアントニア様へ向けて、エトルリアにまつわる話を始める大母后リウィア様。
「忘れたの?セイヤヌスは騎士階級に属するルキウス・セイユス・ストラボの息子として、エトルリアのウォルシニイに生まれたのよ。その男が『教祖』と崇められ、タルクィニウス王に関するエピソードを口にしているのなら、必ず危険な裏があるに違いない」
「そのセイヤヌスの長女ジュリアの話では、セイヤヌスは自分の妻と離縁したそうです」
「何ですって!?」
また、再び人差し指をを口に置いて推敲を始める大母后リウィア様。しかしその顔には、途轍もない不安が入り混じっていた。悪い予感が当たらなければいいと。
「とにかく、クラウディウスに色々と聞きたい事があるの。でもこの事は内密にして頂戴。いつどこで、セイヤヌスの目と耳が探っているかわかりません。考えたくはないけれど、あなたの可愛がっているセイヤヌスの長女ジュリアからも、漏れることだってあるのですから」
「そうですね……。十分に分かっております、お義母さま。ジュリアとは確かにウェスタの巫女達の手伝いとして、一緒にウェスタの神殿まで通っていますが、あくまでも」
「あくまでも、共に愛する男性を亡くなった者同士の慰め、でしょう?」
「お義母さん」
祖母アントニア様の頬を、まるで我が子のように撫でる大母后リウィア様の瞳は、とても安らぎに満ち溢れているようであった。
「もう何度も貴女に言ってきたことだから、いまさらいちいち言うことではないのは分かっていますけど。私の次男ドルサッスを落馬で亡くして以来、貴方は頑なに貞淑を守っているけれど、それでもまだ自分が救われないわけ?」
「いえ、そんな事はありません」
「それじゃ何故?」
「救われたいのではなく、救いたいのです」
「ジュリアを?」
「いえ、うちのバカ娘をです」
祖母アントニア様はぐっと堪えながらも、必死に涙を流さぬように笑顔を見せていた。その切ない表情を眺めている大母后リウィア様は、大きく深呼吸している。
「そうね......」
「大母后リウィア様どうしてなんでしょう?親子という絆がある者同士、何故お互いに反目し合ってしまうのでしょうか?」
「その答えには、今の私は答えられないわ。
また大母后リウィア様も、ぐっと堪えながらも、呆れたようにため息をついている。
「うちの息子もカプリ島にいるのだから」
「お互いに、親失格ですか?」
「ええ、お互いにね。だからやるべき事がいっぱいあるのよ」
たとえ皇族の身であろうとも、親も完璧でなければ、子も完璧ではない。運命と同じような気紛れが、常に人との関わりには訪れてくるのだ。少なくともこの時には既に、大母后リウィア様はセイヤヌスの陰謀に対して、母ウィプサニアを守る意志を固められていた。
続く