第十四章「衰勢」第二百六十九話
"タルペーイアの子守唄"に、自分の事まで唄ってしまう母ウィプサニア……。
尋常ではない様子を知った兄カリグラは、祖母アントニアの助けを借り、養父ティベリウスへ母への見舞いを懇願するため、パラティヌスの宮殿へと出向いた。
「お願いです、ティベリウスお義父さん!」
「ガイウス。私はこれ以上ウィプサニアと話すことはないのだ」
「十分承知しております。しかし、今の母には話すことすらままならないのです。私達家族は、お義父さんの助けが必要なのです!」
堪らず祖母アントニア様も、健気で母想いを演じている兄カリグラの後押しをした。
「ティベリウスお義兄様」
「アントニア?」
「確かに礼節を欠いたウィプサニアの言動や行動には、陛下のみならず大母后リウィア様にとっても、許されざる部分が多分にあるかと存じます。ですが、私の孫ガイウスが伝える彼女の現状は、どの人物から見ても、尋常ではないことはたしかでございます」
「......」
「お義兄さん。どうか、孫ガイウスの誠意の籠った願いを、そして私からの願いも含め、今一度、ウィプサニアに、家族としての情けを掛けていただけませんでしょうか?」
ティベリウスはしばしの沈黙を要した。だが、横にいるセイヤヌスは明らかに焦り、兄や祖母の懇願に対し嫌悪感を出している。だが、この時ばかりは、ティベリウスもセイヤヌスへ耳打ちする事なく、深刻な表情で現状を受け入れている様子だった。
「『公』は『公』であり、今までの目に余るウィプサニアの言動や行動に対して、『公』である立場として、うぬらの懇願を聞く事は出来かねる」
「お、お義兄さん!」
「しかし、『私』は『私』であることも確かな事実。ウィプサニアが言葉すらまともに発する事がままならぬならば、養父として、また義娘の親として、彼女を粗末に扱う事はできぬ」
「恐れながらティベリウス陛下!これはウィプサニア一派の罠でございます!」
「……」
「病弱を装い、陛下をわざわざ自分のドムスに呼び寄せたのは誰でしょうか?しかも、陛下のご持参された果物に対し、毒殺でもされるかのような懐疑的な目で拒否をし、去り際には養父である陛下へ、挑発的な態度を取ったというではありませんか!」
「だまらっしゃい!」
セイヤヌスに対して一喝したのは、一番温厚な祖母アントニア様だった。
「たった今、ティベリウス陛下は、『公』は『公』、『私』は『私』と申されたではないか!たとえセイヤヌス!貴方が親衛隊長官だとしても、私達家族の問題に立ち入ることは許しません!」
その迫力は兄カリグラも不度肝を抜き、沈黙しているティベリウスにも驚きを与えた。さすがのセイヤヌスも自分の思いを先走りした感があったのか、普段の慎重さに欠けている自分を恥じているようだった。
「落ち着きなさい、アントニア。私にとって義妹であるお前が家族として心配するように、このセイヤヌスもまた、私の側近として、公的な立場と観点から私を心配しておるのだ。その部分を含めた上で、少しの理解は願いたいものだ」
「はい、仰るとおりでございました、ティベリウス陛下。感情的になり、冷静さに欠けた事、深くお詫び申し上げます」
「まぁよい。そこまで謙る理由もなかろう」
呆気にとられている兄カリグラを見て、ティベリウスは自分の意見をゆっくりと述べ始めた。
「ガイウス。うぬの母を気遣う純粋な懇願は、養父として責任のある私が真摯に受け止めよう」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、あくまでもそれは家族としての『私』であって、『公』ではないことを理解してほしい。それは同時にうぬの母親ウィプサニアにも言えることだ。この間のように、一切の『公』は『私』の時には受け付けない。分かったな?」
「はい......」
兄カリグラは丁寧に頭を下げ、養父ティベリウスの寛大な御心に感謝を示した。続いて祖母アントニアも、自分の亡き夫の兄であるティベリウスの情けに、涙を目尻に浮かばせながら感謝していた。だが、ただ一人、皇族ではなくエクィテスである騎士階級出身のセイヤヌスだけは、私達家族の生ぬるい感傷に、心の中では嫌気をさせいているようだった。少なくとも、兄カリグラはそのようにセイヤヌスの心を感じ取っていたという。
そして、母ウィプサニアとティベリウスにとって、最後の顔合わせの日が訪れるのであった。
続く