第十四章「衰勢」第二百六十八話
ローマには昔から、とても不気味な子守唄がある。わがままな子供達を、母親達が怖がらせて、寝かしつける子守唄だ。
"タルペーイアの子守唄"
小さな心は空を奪い
ローマの砦を売り飛ばす
タルペーイア
タルペーイア
どうして金を欲しがった?
どうしてローマを裏切った?
タルペーイア
タルペーイア
お前は何も欲しがるな
お前はローマを裏切るな
タルペーイアとは、ローマ建国時にサビニ人とローマ人の争いの中、ローマ人を裏切り敵に砦を明渡した女性。彼女は見返りに敵であるサビニ人から、金の腕輪が貰えると思っていたが、サビニ人から投げつけられた盾で圧死し、その遺体は崖から捨てられた。フォルム・ロマヌムを見下ろす、カピトリヌスの丘の南端の急峻な崖がそれだ。その崖は"タルペーイアの岩"として、現在でも国家犯罪者の処刑に使われている。
"ローマの女はローマを裏切るな。"
きっとローマに身を捧げる親達の思いが、この子守唄を通して、心の底にべっとり浸み込んでいるのかもしれない。事実、子守唄のメロディはとても不安定で、母親は決まってゆっくりと背中を軽く叩きながら、おどろおどろしく唄い出す。目を閉じて早く寝ようとしても、恐ろしい顔をしたタルペーイアが、暗闇の中から自分を襲ってくるような気がして、私は昔からこの子守唄が大っきらいだった。
「リウィッラ……。まただ」
「なに?アグリッピナお姉ちゃん」
「また母さんが"タルペーイアの子守唄"を唄っているの」
私とリウィッラが、奴隷たちが洗濯物を干している横で遊んでいると、二階の母の寝室から、あの子守唄が聞こえてきたのだ。
「お姉ちゃん、子守唄嫌いなんだっけ?」
「て、言うより、気味が悪いの」
「私も怖かった。特にドルシッラお姉ちゃんが唄う子守唄」
「そっか、あんたはドルシッラに唄ってもらってたのか」
「だって、崖から落とされて、顔がぐしゃぐしゃになっちゃっう最後の歌詞まで唄うんだよ」
「はぁ?そんなの歌詞にあったけ?」
私とリウィッラは、お互いに歌詞を言い合って確かめた。私が覚えているのは二番までで、リウィッラが覚えているのは三番もある。それも三番の歌詞はあんまりも残酷で、酷過ぎる内容だった。
「本当にお姉ちゃん知らないんだ」
「知るわけないじゃない。大体、なんだってドルシッラは、私が知らない歌詞まで知っているわけ?」
「私はてっきりお母様から教わってたと思ってたから。あ、三番の歌詞だ」
すると、母の寝室から残酷な子守唄の歌詞が聞こえてくる。
愚かな女は嘘をつく
ローマの岩から投げ飛ばせ
タルペーイア
タルペーイア
どうして金を欲しがった?
どうしてローマを裏切った?
タルペーイア
タルペーイア
お前の誇りは穢れてる
落とされ崩れた顔のよう
母は何度も何度も三番の歌詞を繰り返し唄っている。私は心配になり、二階の母の寝室の傍から眺めてみることにした。リウィッラも後をついてきて、私の背中に隠れて覗いている。
「お母様……」
私は無視された。
母ウィプサニアはベッド上で両膝を折り、丸めた身体を揺らし、窓際を眺めながら子守唄を唄っている。その眼はどこか虚ろで、そして憔悴しきっていた。いつもの凛とした姿はどこにもない。私の姿さえ分からないのだろうか、私の姿に気が付くと、蠅でも追い払うように、私の顔に向けて何度も手で払う。だが、覗いていたリウィッラを見つけると、突然満面の笑みを浮かべ、聖母のように両手を広げてきた。
「リウィッラ!おいで」
「え?」
「お母さんが、あんたに子守唄を唄ってあげる」
お前の母は嘘をつく
ローマの岩から投げ飛ばせ
ウィプサニア
ウィプサニア
どうして名誉を欲しがった?
どうして夫を裏切った?
ウィプサニア
ウィプサニア
お前の身体は穢れてる
落とされ崩れた顔のよう
母ウィプサニアは、既に壊れていたのかもしれない。ゲルマニクスお父様を亡くしてからこの七年の間に、色々な事が彼女を苦しめ始めていた。そして哀れにも、一人では抱えきれない自責の念までも、彼女は生み出してしまったようだった。
続く