第十四章「衰勢」第二百六十六話
アウグストゥス宮殿から少し離れたドムス。
そこで職人にフラスコ画を描かせている大母后リウィア様は、ネルウァ様の言葉に耳を疑った。
「セイヤヌスが『教祖』と?」
「はい。たしかにピラトゥスから、そのように呼ばれておりました」
当時のローマが把握している密教でも、その数は二桁を軽く超えていた。当然セイヤヌスを教祖などと呼ぶには、何かしらの密教との関わりがあると大母后リウィア様は考えられた。
「その、ピラトゥスとは?」
「現在ユダヤ人を嫌悪するローマ市民から、絶大なる支持を得ている人物です。セイヤヌスとは共に、同じ騎士階級のエクィテス出身ということだけで......」
「その素性に関しては現在調査中なのでしょう?」
「はい」
「問題はセイヤヌスを、何故『教祖』などと呼ぶのか?」
「さぁ......」
顔をひねり俯いてしまうネルウァ様。大母后リウィア様も自分の足元を見つめながら、その謎に困惑していた。すると、ネルウァ様は、ピラトゥスがセイヤヌスへ別れ際に発した言葉を思い出す。
「もしかしたら、何かへの暗号のような言葉と関係しているのかもしれません」
「暗号?」
「ええ。彼らは互いに立ち去るときに次のような言葉を発しました。"我ら、一羽の鷲が主の帽子を持ち去り、その鷲が再び帽子を主に返す事を待つ"、と。」
大母后リウィア様は、人差し指を口許に付けるいつもの癖で、ネルウァ様の聞いた言葉に推敲を始めてみた。そして、眉間のしわをさらに厳しく寄せ、ネルウァ様の目をじっくりと眺めながら、自分の分かる範囲の知識を振り絞った。
「一つ分かることは、共和制が生まれる今から六百年以上も前、タルクィニウス・プリスクス王に起きたエピソードに似ている事ね」
「タルクィニウス・プリスクス王?あのローマ五代目の王ですな?」
「ええ、そして初のエトルリア出身のローマ王よ」
人差し指を口に添えたまま、大母后リウィア様はゆっくりとあたりを歩きながら、プリスクス王にまつわるエピソードを紐解いていく。
「確か、プリスクス王の父親はギリシャのコリント出身であっため、エトルリアの純血人としては認めらなかった。そのため本国のタルクィニアでは政治的な地位に就く事は適わず、ローマへと移住することにした。移動している時に、一羽の鷲が帽子を持ち去り、再び戻って帽子を返したそうなの」
「"我ら、一羽の鷲が主の帽子を持ち去り、その鷲が再び帽子を主に返す事を待つ"。なるほど、まさにそのエピソードを模しているようですな」
「しかし、それだけでは、そのピラトゥスという者が、わざわざセイヤヌスを直接『教祖』などと呼ぶに至らないわ」
ネルウァ様は、何かを思い出したように口を挟んだ。
「お言葉ですが、大母后リウィア様。エトルリア人は百年以上前のユーリウス法によって、ローマ人への同化政策として迎え入れられたはずでは?」
「確かにそうね、ネルウァ。何かモザイクのピースが足りないような気がする」
「どこか、エトルリアに詳しい人物でもいれば、彼らの悪巧みを暴くことができるのでしょうけど」
この時大母后リウィア様は、まさかご自分の孫であるクラウディウス叔父様が、エトルリアの密教「トゥクルカ」の調査をしているとは、予想打にもしていなかった。
「分かりました。エトルリアについては、私が当たりましょう。貴方は息子のティベリウスに、一刻も早くユダヤ人のコミュニティをローマから追放するよう進言しなさい」
「なぜですか?大母后リウィア様はユダヤ人のコミュニティがお嫌いでしたか?」
「そんなわけありません。彼らに悪感情などは一切ありません。 セイヤヌスとピラトゥスが彼らのコミュニティを使って、何かをしようとしているのならば、少々荒いやり方ではありますが、先手を打ってあの二人を出し抜くのです」
「さすがです、大母后リウィア様。」
ようやく描き終わったフラスコ画を眺める大母后リウィア様。しかし、その顔には少し寂しさが滲み出ている。
「どうせ、ティベリウスは私の言う事など聞く耳持たぬでしょう……。ですがネルウァ、貴方なら、ユダヤ人への得策を併せ持って進言すれば、あの子もバランスを考え、素直に意見を受け入れる事でしょう。」
「では、ピラトゥスとセイヤヌスを油断させ、二人を引き裂く為の褒美を取らすのは如何でしょうか?」
「二人を引き裂く為の褒美を?」
妙案を考えついたネルウァ様は、豊かな笑顔で答え始める。
「ちょうどユダヤ属州における次期総督の座が空いております。ピラトゥスをユダヤ属州へ飛ばせば、セイヤヌスとも悪巧みをする事は困難かと」
「ユダヤ人を嫌悪するピラトゥスを送れば、属州民という火に油を注ぐような事にならないかしら?」
「大丈夫です。被支配住民には総督の解職請求をする権利が与えられてますし、飼い犬にはしっかりと、シリア属州の総督という首輪をつけましょう」
「ネルウァ、やはり貴方は聡明だわ」
「これも全て、大母后リウィア様の意思である、ユリウスとクラウディウスの氏族を守るためですね?」
「いいえ、違います」
その言葉には嘘偽りの無い表情が、ハッキリと現れていた。
「全世界に平和をもたらした、あの人アウグストゥスが遺した遺産を守るためです。私は約束したのです。妻としてだけではなく、一人の人として……」
「大変失礼致しました、大母后リウィア様」
奥歯を噛みしめ、目を細めるそのお姿に、ネルウァ様も畏敬の念を抱かずにはいられない。心から愛する夫、初代皇帝アウグストゥス様と共に掲げた高貴な理想は、大母后リウィア様がしっかりとお護りになられているのだから。
続く