第十四章「衰勢」第二百六十三話
兄カリグラは右眉をクイっとあげながら、懐疑的な表情を浮かべて私に不満を漏らす。
「アグリッピナ、お前はどうしてドルシッラにもっと優しくできないんだ?」
「だってガイウス兄さん、あの子が勝手に落ち込んで、勝手に泣いただけよ」
「それが冷たいって言ってるんだよ」
「それじゃどうして?兄さんは、ドルシッラに優しすぎるわけ?あたしなんかより従順で、可愛いからでしょ?」
「違う」
「嘘!昔は兄さんは、月の女神アルテミス様の女装をして、ドルシッラを襲ってたじゃない」
「あれは若気の至りだ。もうやっていない」
「当然じゃない、自分の兄が妹を襲っているなんて恥ずかしい」
兄カリグラは、ため息をつくとすぐさま私の顔を憐れみを携えて見つめる。
「お前、ドルシッラがあんなになった理由覚えているよな?」
「うん、何となく。お父様が亡くなってから、お父様の遺灰へ訪れる属州民に笑顔を絶やさずに振舞っていたからでしょ?」
「それだけじゃない。お母様が問題だったからだ」
「え?」
横顔を見せる兄カリグラは、いつもの兄とは違う、少し寂しげな様子だった。
「お母様はゲルマニクスお父様が亡くなってから、狂乱したんだ。自分も死ぬと言い出して、生きる価値のない人間だと」
「お母様……」
「お父様の部下は常に見張ってくれたけど、事ある毎にナイフを取り出して、自分の胸に突き刺そうとした。その姿を、僅か四歳のドルシッラが見てしまったんだ」
「え!?」
「当然見られたお母様も尋常じゃない。何をしでかしたかと思ったら、ドルシッラにそのナイフを持たせて、自分の喉元へ押し込むように仕向けたんだ」
「そ、そんな!」
今ならその光景が目に浮かぶように感じる。
異常とも思えるほどの奇妙な最近の行動の数々を目の当たりにしていれば、妹に自殺の手助けをさせることだって厭わないかもしれない。ようは、自尊心を失った心の刃が、自分へなのかそれとも他人へなのか、何方に向いているかだけの話。
「だが、ドルシッラ自身がそれを分かっていなかったんだ」
「嘘でしょ!?」
「本当だ。ナイフなんて見たことなかっただろうし、妹のリウィッラが生まれてから、ずっと面倒見の良いお姉さんを演じることで褒められてきたんだ。母親が望むことをすれば、自分は褒められる。だから、その時も迷わず押し込もうとした。その時に間一髪、お父様の部下が助けてくれたんだ」
「……」
「それから数日間、ドルシッラはお母様からずっと無視をされ続けていた。一つは、お母様がお父様の後を追えなかった悲しみと、もう一つは実の娘にそんな惨いことをさせてしまった自責の念。だが、ドルシッラは、なぜ自分が母親から無視をされ続けていたかを理解できなかった」
"アグリッピナお姉さんは、自分勝手に生きてるから、私の気持ちなんか理解できないのよ"
昨夜ドルシッラが言ってたあの言葉には、そんな深い意味が隠されていたのかと思い知らされる。一歳しかドルシッラと離れていないとはいえ、自分が同じ立場ならどうだっただろうか?
「だがな、アグリッピナ。もっとも酷かったのは、自分が何をやっていたかを理解した時だ」
「どういうこと?」
「つまり、ナイフが命を奪うことを知った時さ」
「!?」
"結局、姉さんは贅沢に生きているの"
贅沢に生きている、か…。考えてみれば、私は曾祖母である大母后リウィア様と、祖母のアントニア様に守られながら不自由無くは生きてきた。寡婦に成らざるを得なかった母が、露わにした女の醜さもドルシッラの不幸も、何処か別世界の、まるで国家に十分すぎるほど守られたローマにあるパラティヌス丘から、彼女達の不幸を見下ろして眺めていたかもしれない。
「アグリッピナ、お前にお母様の不幸を受け止められる覚悟はあるか?」
「……無理。そんなの無理」
「フン、お前らしい答えだな。本当、アグリッピナは正直に生きてやがるよ。だったら、理解してやれとは言わんから、せめて長女として、ドルシッラにはもう少しだけ優しくしてやれよ。親同士は元々他人であっても、俺たち兄妹はどこへ行っても血が繋がっているんだ」
兄カリグラの愛情は屈折したものかもしれない。でも、長男ネロお兄様や次男ドルススお兄様とは違った方法で、私達三姉妹を思う気持ちは強かった。事実、兄が三代目ローマ皇帝になった時、兄カリグラはわざわざセステルティウス硬貨の裏に、私達三姉妹の姿と名前を刻んでくれたのだから。
続く