第十三章「兄弟の対立」第二百五十五話
「ずっと離れて暮らしていた父が、やっと久しぶりに会わないか?って声を掛けてくれたんです」
「そっか~!良かったね、ジュリア」
「はい!アグリッピナ様。これで両親達も、きっと……」
「ジュリア」
私達は長女だ。
本当は誰よりも甘えん坊で、誰よりも父親が大好き。私は勝気な性格でそれを隠し、ジュリアは笑顔でそれを隠している。だから父親を自分だけが独り占めできたとしたら、それは誰よりも嬉しいのだ。彼女を支えていた何かが外れたように、泣き虫ジュリアは私の胸を借りて涙を流す。サラサラした彼女のおかっぱを何度も何度も撫でながら、大きな幸せよりも、小さく些細な幸せの積み重ねが、私達長女を幸せにしてくれるんだ。そんな事を、曇り空を眺めながら見ていた。
一方、セイヤヌスの別邸に招かれたドルススお兄様は、初めて親衛隊長官セイヤヌスと二人っきりで面会していた。いつも宮殿でしか見たことがないトカゲのようなセイヤヌスとは、おおよそ格好も雰囲気も違っている。当然鎧や軍靴などはしておらず、くるぶしまで届く長い丈のトゥニカをゆったり着て、パピルスに書かれた書物を物静かに眺めている。トカゲと呼ぶには些か躊躇するような横顔は、アルキメデスにも似た知的な雰囲気を持ち合わせてる。
「セイヤヌスさん」
「うん。ドルススくん、よくいらした」
「念のため、護衛のクッルスを連れてきました」
「賢明だな。だが、見たまえ、私は短剣などこの格好で持てると思うか?」
両手を広げ、ニッコリと笑う。
ドルススお兄様はそれでも警戒は一応している。自分達の母親の政敵と会っているのだから。
「元老院達がな、君に会ってみてはどうか?と提案されたんだ」
「そうなんですか」
「実は私は、君への首都長官任命には反対だったんでね。今でも納得はしていない」
ギロっとこちらを覗く視線は、やはりトカゲのセイヤヌスだった。ドルススお兄様の喉越しには一瞬緊張が走ったが、セイヤヌスは豪快に笑った。
「ゴメン、ゴメン。冗談さ」
「あははは…」
「君のお義父様であるティベリウス皇帝陛下は、君の構築した水道橋増築の青写真や財務官としての経歴を高く評価されていたんだ。私も今では納得しているよ」
「そ、それならいいのですけど」
「それで?母親の政敵である私のイメージはどんな感じかね?」
「あはは……」
「構わんよ。君のお兄さんであるネロ様は、エトルリア出身だというだけで、私をトゥスキという差別意識で見ているぞ?」
「僕は、兄とは違います」
右頬へ閉じた口を突き刺すように、左眉をクイっと上げたまま、懐疑的な顔をするセイヤヌス。
「ほう?君にはエトルリア人を差別する意識はないのか?」
「僕の恋人であるサルビアも、エトルリア出身の家族ですから」
「"恋人だったサルビア。"だろ?」
兄は何も言わず、鋭い眼光で応えた。
「すまんすまん。ルキウス・サルビアヌス・オトは、私とは家族ぐるみの付き合いをしているものでな、そういう話には聞きたくなくても、耳に入ってしまうんだ」
「……」
「男と女の関係では、それぞれ物の見方も変わってくるだろう。私はサルビア側から、一方的に話をきいたまでなの、変な誤解はしないでくれ」
しばらくセイヤヌスは葡萄酒を味わいながら飲んで、ドルススお兄様へも飲むように催促する。だが、お兄様は躊躇されている。
「大丈夫、心配はいらん。毒など入ってはいない」
「……」
「それに、今日は君とじっくり腰を据えて、この世界にある不条理の仕組みについて、男同士で語り合いたいと思うんだ」
「不条理の仕組み、ですか?」
「そうさ。君は既に成人したローマ市民として、元老院にも列されながらも、カエサルの血脈というものだけを盾にするのではなかった。しかし、誠実な君にとっても、自分の実力を弟という立場だけで認められず、たかがくだらない兄弟の順番という不条理に、苦渋の汁を舐めさせられた想いはあるだろう?」
セイヤヌスにズバリ指摘されたことは、兄には何度も感じている事であった。両手に抱えた葡萄酒の水面には、不条理な事へ不服な顔を映し出している。兄はまるでその姿を消し去るように、一気に飲み干してしまう。
「ローマ人らしい豪快な飲み方だ。まるで葡萄酒をそのまま薄めず飲み干す、ティベリウス陛下のようだ」
「うぐ。もういっぱいください」
「どれどれ」
すると、再び葡萄酒には、不服そうな自分の顔が映っている。耐えきれなくなったお兄様は、再び一気に飲み干す。その姿を、まるで憐れむように見つめるセイヤヌス。
「セイヤヌスさんは、何故、こんな僕を、わざわざここへ呼んだんですか?」
「男同士、単刀直入に腹を割って話そう。君のその揺るぎない正義感で、君自身を救って欲しいんだ」
「え?」
憐れみを決して隠さない意外なセイヤヌスの言葉に、ドルススお兄様は、どこか心を奪われつつあった。
続く