第十三章「兄弟の対立」第二百五十話
母ウィプサニアの度が過ぎた事件が起きる。
それは、私達を養子縁組としている元首であり、現皇帝ティベリウスの逆鱗に触れるものであった。
「ネルウァ様、何故?うちのネロが首都長官を務めらないのですか?!」
「落ち着きなされ、ウィプサニア殿。確かにラティウム祭で政務官が留守となった場合、ローマを預かる首都長官は、元首一家の若い男子が任命されるのが通例じゃ」
「それならば、血筋から考えても、うちのネロ以外に誰がいるのですか?!私達は元首であるティベリウスの家族です!」
「じゃが、皇帝陛下は留保されておるのじゃ。最近のウィプサニア殿の強固な姿勢は、元老院からも煙たがれている事に、気がついているのか?」
「どうしてですか?!ネルウァ様!私達はカエサルの血を引くのですよ!」
「それが鼻に付くと言っておるのじゃ!」
「……」
「国民はそなたを褒め称えるじゃろう。だが、彼らは余興の無いこのご時世の楽しみに過ぎん。奴らには責任など感じつ、あわよくば娯楽としてさえ考えておる」
「そんなものに飲まれては、カエサルの名に恥じるものです!ティベリウスは、私のいとこさえも姦通罪で訴えようとしているんですよ!」
「それは、ティベリウス陛下本人ではなくドミティアス・アフロ様じゃろうが!」
「いいえ!後ろに手引きをしてのは、絶対にティベリウスです!」
「いい加減にしないか!」
さすがのネルウァ様も、ウィプサニアの制御できぬ傲慢さに、腹正しいほどの怒りを露わにした。
「皇帝の陰謀説を作り上げるのは勝手じゃが、それによって一線を画し、我を見失って如何するのじゃ?ウィプサニア殿、お主は国家反逆罪の恐ろしさを知らん!」
「国家…反逆罪ですって?何を仰っているんですか?!何故、皇族の私が!?」
「ゲルマニクスを慕う部下まで手に入れて、公然と現皇帝へ反発すれば、それも血は繋がらなくともティベリウス陛下は親子ではないか!養子縁組とはいえ、どこまでお主は甘えれば気が済むのじゃ?!」
「そ、そんな?!何故ネルウァ様がそこまで言われるのですか?!」
「よいか!わしはお主に政権奪還など一言も頼んでおらん!ゲルマニクスを喪った寡婦に哀れみを感じたからこそ、ここまで支援してきたのじゃ!それを勘違いしおって!」
ネルウァ様の怒りは頂点を貫いていた。今までの優しく聡明な物腰とは違う、厳しい言い方であった。今までの母なら、それは素直に受け止め、自分を律する糧にしてたはず。しかし、今回は違っていた。
「そこまで仰るのなら、私が自らティベリウスへ直訴致します!」
「な、なんじゃと?」
「カエサルの血筋を受け継ぐ者として、胸を張って生きろと仰ったのは、貴方自身ではありませんか!」
「ウィプサニア殿!」
「白日の下に晒す事で、不利になるのは私達ユリウス家ではなく、彼らクラウディウス氏族なのですから!失礼!」
母にはティベリウスを説き伏せる切り札があると考えていた。自分が正統な血筋を受け継ぐ者として、そしてその理屈は確かに正論であった。しかし、ローマは母が考えるほど甘くはない。母はティベリウスへ糾弾するべくわざわざ喪服を着て、パラティヌス丘にあるアウグストゥス様の霊を祀る神殿へと向かった。神君の霊に捧げた祭壇を前に、慎ましく額ずいていたティベリウスに対し、母は抑えきれぬ感情と共に声を荒げてしまう。
「ティベリウス!」
「?」
「なんたる侮辱!なんたる偽善!その穢れた右手では、我が祖父神君アウグストゥス様の石像に形だけ敬服し、その汚れた左手では、我が祖父が子孫の為に遺した意思や魂を握り潰している!」
「......」
「我がいとこを糾弾し、我がネロを首都長官への任命を保留するとは、神君カエサルの血を引く我が家族を蔑ろにしてるも同じ!祖父の魂を継承する者は、この世において私ただ一人!それは、世界中の誰もが認めていること!」
「……」
「私が袖を通しているこのストラとパルラが、何を表しているのか分かるのだろうか!?皇族でありながらも、喪服を着なければならないほど、私の家族は今、危険に満ち溢れている!その節穴の目には、何も映ってはいないのだろう!」
だが、ティベリウスは何一つ答えず、表情も変えず、ウィプサニアへ近付いていく。荒い息を吐いているウィプサニアの両腕をしっかりと掴み、彼女の耳元でギリシャ語で囁いた。
「私の目に映るものは、統治を許されずに憤慨する、卑しい心を纏ったお前の姿のみだ」
瞬き一つさえしないティベリウスの眼光には、決して養子縁組であっても一線を踏み越えた者に、然るべき報いを受けさせる決意が現れていた。これにより、元首の家族という名目で、母の批難を控えていた元老院貴族達も、蓄積していた鬱陶しさを露わに掌を返すことになる。そして、神君アウグストゥス様の皇后であった大母后リウィア様は、母の礼節を欠いた無礼な態度に対し、寛容できぬ家族の恥として、あらゆることを禁じざるを得ないとした。
「アシニウス殿。この状況は、あのお方が最も望まれていない事態じゃ。そして、わしは直々にウィプサニアから手を引くように告げられた」
「大母后リウィア様、直々にですか…」
「そうじゃ。考えてもみたまえ?ティベリウス陛下との衝突を避けるために、常にゲルマニクス殿の母親アントニア様と共に、大母后リウィア様は影で死力を尽くされてきたのだ。夫を喪ったウィプサニアの怒りを不憫に思うたからこそ、あの方は自ら公然と悪役を今まで演じ、我々二人にはウィプサニアを支援するように命じられた」
「ええ、そうでした」
「だが、今のウィプサニアには、自分の祖父である尊厳者を尊う気持ちも、寡婦としての慎ましく謙虚な姿も微塵さえ無い。虚栄心と怨恨が入り乱れる思い込みと妄想の塊じゃ」
「ネルウァ様……」
「老兵へ訪問する退き際があるように、ワシらの見込みも、そろそろ潮時じゃろ」
寂しく背中を丸めながら、コッケイウス家のネルウァ様は、静かに私達の別邸であるヴィッラを後にする。アシニウス様は頭を下げたまま、だが、正にこの時を心待ちにしていたのだ。
「フン!見込み違いは貴様の方だ、老いぼれめ」
口元に煩悩を浮かべるアシニウス様は、忌々しい牛魔皇帝の角を奪い、ウィプサニアを我が物とする邪心を、ようやく解き放つ舞台へと立つのであった。
続く