第三章「母」第二十五話
「つまり、このユリア・アグリッピナが、ティベリウス皇帝陛下の面目を保つ為にローマにいる事が重要であって、何処の氏族に留まるかは、さして重要ではございません。」
アントニア様のはっきりした声が宮殿内に響き渡る。人さし指を口許に当てて推敲する大母后リウィア様。昨日とは打って変わって、まるで天敵にでも出くわしたような鋭い目付きで見つめてる。ようやくアントニア様が懇願を終えると、一つの溜息と二つの微笑みをついては浮かべてきっぱりとした表情で答える。
「分かりました。確かに…アントニアの言う通りです。では、ウィプサニアが旅立った翌日の朝より、毎日必ず護衛の者を連れてかせます。ユリア・アグリッピナに対する命の保障と生活の保障はいたしましょう。」
「ありがとうございます。」
アントニア様は感謝の言葉を大母后リウィア様へ伝えると、横にいた私にそっとウィンクをしてくれる。これによって私はだいぶ気分が落ち着き、私はすかさずリウィア様へ感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます、大母后様。」
「良いのよ、アグリッピナちゃん。楽しみ待ってるわ。」
結局、アントニア様の所に住みながら、大母后様の『スパルタ教室』へ通う事になった。宮殿を後にした私達は、大母后リウィア様へ一矢報いたアントニア様が満足そうに腕をまくってた。
「さすがに法律に飼育されてる母后だこと。ユリアちゃん、これでママのウィプサニアが旅立っても、私と一緒だから安心よ。」
「はい!お姉さん。」
「うーん、いいお返事。」
お母様は、私と離れてもいいから、それほどお父様のことが心配なのだろうか?私の事は…寂しくないのだろうか。
「ユリアちゃん、きっと大丈夫よ。美味しい料理をいっぱいご馳走してあげるからね!」
「はい!お姉さん。」
「うーん、いいお返事。」
パラティヌスから離れた郊外にある、アントニア様のご自宅である住居のドムスへ戻ると、心配してわざわざリウィッラ叔母さまが駆け付けてくれた。アントニア様は大母后様の鼻をへし折ったと笑いながら語っている。でもリウィッラ叔母さまは私の事を深く気遣ってくれた。
「ウィプサニア義姉さん、本当にユリアちゃん一人にして大丈夫?」
「私は良いんだけど、この子の事を思うと…。」
幻を眺めるようにお母様は私を見つめている。でも分かってる。お母様が私に求めている事は、今度はお母様の面目を保つ事だって。
「だ、大丈夫です、リウィッラ叔母さま!大好きなアントニアお姉さんの所にお世話になりますし、大母后リウィア様の所で、しっかりと『強い子供を産める母体の育成』を学んできます。」
リウィッラ叔母さまはドルスッス様とご一緒にイリリクムへ再び派遣される為、以前のように今度はローマにはいられない。そして何より心配されていたのは、大母后リウィア様のスパルタ教室のではなく、実の母親であるアントニア様の自由奔放な性格の事だった。
「本当に?うちのお母さん、この通り自由奔放だから、ちゃんと躾できるか心配なの。」
「ちょっと!リウィッラそれどういう意味よ?」
しかし全くリウィッラ叔母さまはアントニア様へ耳を貸さない。そのまま心配そうな顔をしたまま、私にしゃがんでずっと話しかけてくれた。
「無理だったら別に無理しなくても良いのよ、ユリアちゃん。叔母ちゃんが別の安心できる人探してあげるから。」
「失礼ね!リウィッラ。ユリアちゃんを私が預かるのが、そんな心配なわけ?」
「だって母さん、自由すぎるから。」
「その自由すぎる母親から、あんたは生まれてきたんでしょ!?」
「私はお父さん譲りだから慎重なの。」
「慎重過ぎても、あの人は落馬したのよ!」
その時、あたり一体の空気が重苦しくなった。右手を握りしめるお母様の手肌から、険しい緊張感を感じる。
「慎重になることは確かに女性として大切な事よ。でもね、慎重になり過ぎた場合は、周りが全く見えなくなるの。ちょっとした事でも怯え、今度は疑い深くなり、実の家族同士でさえ敵意を持つ事だってあるの!」
「そんなこと絶対にないわよ。こんなに私達仲がいいのだから!それこそ母さんの方が考え過ぎだって。」
「いいえリウィッラ、人間の心に『絶対』なんてあり得ないわ。揺れる水面のように、人の心は色んな表情に変化していくの。例えそれが自分自身で揺らしてなくとも、悪意を持った誰かに揺らされる事だってあるの。」
後から考えると、この時のアントニア様の言葉は見事に未来を予言していたのかもしれない。お母様のこと、リウィッラ叔母さまのこと、そしてご自分の未来のことさえも。
「だから、何にでもバランス良く、全体と詳細を見極めなさい。」
「はいはい、分かりました…。」
「リウィッラ!『はい』は一回で十分!」
「はい!」
アントニアお姉さんの説教が終わると、今度はお母様へ声を掛けた。
「そして、ウィプサニア。」
「はい…。」
「これからの貴女や貴女の家族を守っているのは、このユリアちゃんである事を忘れないで。」
「お、お義母さん…。」
「自分を責めてはダメ。自分の貫きたい意志に正直になるという事は、同時に自分の精神の強さを試されているという事。自由には必ず責任が付随する事を忘れないで。」
「はい…。」
いよいよお母様達はお父様の所へ。
私だけをローマに残して旅立って行く。
続く