第十三章「兄弟の対立」第二百四十七話
時として、人の純真な想いは残酷だ。
奪われた心を返してと望むように、苦しいほど、哀しいほど、愛しいその人を追い求める。それなのにその想いが報われなければ、体中は火傷したように怒りに包まれ、氷山の中で素肌で凍えさせられる。それが神々の仕業なら、ますます私は彼らを軽蔑する。優しくて、純真で、相手を思いやる私の大好きだったお兄様達の魂を返して欲しいと……。
「ドルスス!いい加減になさい!」
「いちいち母さんはうるさいんです。ったく!傀儡回しが」
「おいドルスス!それが母親に対する言い方か?!」
「呼び捨てするんじゃねよ、ネロ!」
日を重ねるごとに、ドルススお兄様とネロお兄様は衝突していった。
お二人のいがみ合いは、私達姉妹の心に鋭い爪を立てられるような思い。なんとか争わせないように努めていた母ウィプサニアだけれども、諫めるだけでは不可能なほど。外部の人間やローマ市民には知られぬようにと、二人の仲を取り持ったりしていたらしいが、結局、母も母で勢力を拡大する為、構ってもいられない忙しい身。私はお二人お兄様の仲が良くなれる方法を、ずっと考えていた。今、それに答えられるのは、悔しいけど男性の兄カリグラしかいない。
「ガイウス兄さん?」
「うん、アグリッピナか」
兄は相変わらず広い庭園をギリシャ神話の舞台に見立てて、剣を振り回して好き勝手に生きている。
「なんだ、お前、またセイレーンの真似したいのかよ?」
「違うわよ、そんなんじゃない。ちょっと相談があるの」
「なんだよ?」
「ネロ兄さんとドルスス兄さんの事なんだけど...」
「ほっとけよ。二人は好きで喧嘩しているんだから」
「そんな言い方ないじゃない」
すると兄カリグラは苛立つように剣を地面に突き立てて、私の方にズカズカと近づいてきた。右眉だけクイっと釣り上げて、私を小馬鹿にしたような表情で見下している。
「あのな、アグリッピナ。むしろ二人が仲良くベタベタしている方が気持ち悪い」
「どうしてよ?」
「男ってものはな、目に見えて喧嘩してなんぼなんだよ。そうやって、互いに自分の力を誇示し合いながら、色々な事を自分の手で掴んでいく。同じ家族だって考えは変わっていくのに、あの二人を仲良くさせたところで何が残る」
「でも、やっぱり仲が悪いのは気分悪いじゃない」
「それはお前の気分だろ?」
「え?」
「自分が心地良く、しかも都合のいいように過ごしたいからって、兄貴達を仲直りさせるのはやめておけ」
時々、兄カリグラは鋭く事実を刺してくる。確かにそうかもしれないけど。
「でもきっと、お兄様同士にとっても良くないと思うの。このままでは」
「はぁ?お前、それ、本気で言ってるのか?」
「ええ、もちろん」
「ずいぶん自分勝手な奴だ」
「ど、どうしてよ?」
今度は右手の指を剣のように見立てて振り回している。
「所詮、人間なんてエゴの塊だ。相手のためと思っても、結局自分の為にやっているんだ。だったらそいつらが望む事をやらせてあげるのが、相手の事を一番考えてる事になるだろ」
「でもさ、時に冷静さを失って、自分が望んでもないのに感情的になれば、普段気付ける事だって気付けない時があるじゃない?」
お兄様達は、ご自分の抑えきれない感情が邪魔をして、相手を尊重できなくなっているだけなんだ。だって、昔は仲良く徹夜して軍靴作ったりしてたし。
「そうよ!ちょっとした感情が邪魔をしているだけなんだから。本当は心根が優しいのだから、やっぱり喧嘩はよくないってちゃんと伝えないと」
先ほどまで剣に見立てていた兄カリグラの右手が、突然私の喉元までピタリと止まる。
「それが解決できるのなら、アキレウスもパリスに殺されずに済んだはずだ。」
私を制止している兄カリグラの右手は、まるで蛇の頭のように何かを待ちかまえていた。私はその動きに圧倒されて、言葉で反抗するのが精いっぱい。
「でも、神々がパリスに味方した運があったから、アキレウスは負けたのでしょ?」
「フッ...運か。そんなものは俺から見れば、感情や神々と同じモノに見える。所詮は気まぐれという名の産物さ。」
「...。」
「兄貴達の感情をコントロールしたければやってみろ。だが、気まぐれの持つ恐ろしさに太刀打ちできなければ、お前が足をすくわれるぞ」
妙に説得力のある言葉だった。そして地面に突き刺していた剣を兄カリグラは抜き、再び自由に振り回している。きっと私を心配したわけじゃないけれど、最近の兄には以前とは違う存在感が増しているよう。お二人のお兄様よりも年齢は低いはずなのに、どこか二人を達観して見ている。一方で、いまだにホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』等の話に魅入られている。でも幼い頃のような憧れとは何か違うよう。私は少し意地悪な質問を投げかけたくなった。
「ガイウス兄さんだったら、その気まぐれにどうするわけ?」
「簡単だ」
兄カリグラから発せられる妙に落ち着いた雰囲気が、私の喉越しをゴクリと通っていく。そして、兄らしかるぬ妖美な口元が、不敵に微笑みを見せていた。
「自分が神になればいい」
続く