第十三章「兄弟の対立」第二百四十五話
アシニウス様の亡くなられた奥様は、とても数奇で複雑な運命を歩んでこられてきた。
母ウィプサニアとは十二歳も離れていたが、共に祖父である軍神アグリッパの娘で異母姉妹であった。初婚は現皇帝ティベリウスで、昨年亡くなったドルスッス叔父様をご出産された。しかし初代皇帝神君アウグストゥスの意向により、ティベリウス皇帝とは離縁させられ、アシニウス様と再婚されたのである。その後、アシニウス様と平穏な家庭を築かれ、五十六歳でこの世を去られてしまった。
「あまりにも妻の若い頃を、ウィプサニアは思い起こさせるんです。きっと、彼女も私の気持ちと同じなはずです」
「何を寝ぼけた事を、ぬかしておるのじゃ」
「週末毎に逢瀬を重ねていくうちに、私達はどこか言葉を交わさずとも、何かの繋がりを感じるようになっていったのです。お気づきですか?ネルウァ様は。ウィプサニアはいつも私の瞳をじっくりと見つめてくれるのですよ」
当時の私は大人の醜い恋心にびっくりしてた。けど、今こうやって四十を超えた女性の観点から考えると、やはり母はアシニウス様が好意を寄せていたのは分かっていたようだ。アシニウス様が仰っていた、相手の瞳を覗き込むような仕草は、母特有の相手を傷つけないよう敢えて避ける行動。現に肩をアシニウス様から触れられたりすれば、母は丁寧にそれとなく払っている。それに、政治的にも一緒になることなどは全く考えて無かったと思う。お父様の名声と神威は、もやはこの頃は神憑り的な勢い。それをかなぐり捨てて二十歳以上も離れている中年男と再婚すれば、政権奪還どころか、ローマ市民からもそっぽを向かれて反感をくらうのは、母でなくとも目に見えるからだ。
「『逢瀬を重ねていく』という言葉は、相手の想いがあってのことじゃろ?どう見てもウィプサニア殿には、そのような恋心があるようには思えぬ」
「ネルウァ様、私には光り輝くアポロ様のように、ウィプサニアの気持ちが明確に分かるんです」
「ふん、アポロ様もダフネ様に片思いじゃったろうに?」
「それとは別です!」
溜息をつくネルウァ様は、まるで虫の好かないような表情で、アシニウス様の哀れな片思いの恋心に水を差す。
「ならば、おぬしにとってのダフネ様が、月桂樹に変えられるどころでは済まされぬを、わしは見て見ぬ振りをしろというのか?」
「ど、どういうことですか?ウィプサニアに何が起きるというのです!?」
「シッ!声が大きい」
「ゲルマニクスの部下達に声を掛けたことにより、ウィプサニア殿をローマの敵にさせてよいのか?」
「ロ、ローマの敵ですと!?私は、彼らをただウィプサニアに賛同するよう訴えただけであって、」
「そこじゃよ!元ローマ兵とはいえ武力は武力じゃ。元老院側の保守的な貴族からすれば、ウィプサニアの強固な姿勢も共だって立派な国家反逆罪じゃ。よいのか?おぬしの最も嫌っておるセイヤヌスは、今頃腹を抱えて笑っているだろう。まるで、生贄の豚がオリーブオイルを体中に塗りたくって、炎へめがけてやってきたとな」
「くっ!セイヤヌス...」
アシニウス様とティベリウス皇帝の仲が悪くなったのは、共に同じ女性を愛したからだけではなかった。その間には、あのセイヤヌスの存在が不可欠。彼の得意技は火の無いところに煙を上げる事。アシニウス様の悪い噂ばかりを皇帝の耳に入れ、腹心として最も信頼ある立場を手に入れた。そのおかげで、指導的市民と呼ばれる有力元老院議員であるにも関わらず、アシニウス様はティベリウス様の先妻との再婚も重なって、ローマ国家からは不遇な状況に追い込まれていった。酷く落胆しているアシニウス様へ深いため息をつくネルウァ様は、恋に溺れた中年男を少しでも目を醒まさせようとしている。
「よいか?わしらが何故、敢えてウィプサニアに支援しているのかを忘れてはならぬ」
「あの『お方』から命じられたようにですか?」
「その通りじゃ」
あのお方?一体誰の事なんだろう。私はそのまま茂みに隠れたまま、色々な人の事を想像したが、結局わからなかった。
「間違ってもウィプサニアに政権奪還などと血迷った行動をさせてはならん。それはあのお方と神君の強い意志でもある。そして『ローマの魔物』を成敗するまでは、我々が冷静にバランスを保たなければ、ローマ国家の崩壊を招くだけじゃ」
「......。」
ローマの魔物?これもまた、私にはさっぱり与り知らぬところの話で、きっとオリュンポスの十二神に対抗している敵なんだと思っていた。
「私に、ウィプサニアを諦めろと?」
「諦めきれぬのなら、わしもあの方に報告しておぬしをこの件から外すまでじゃ」
一様に納得している様子であったが、アシニウス様もまた、ゲルマニクスお父様の神威によって苦渋を舐めさせられ虐げられた一人でもあった。
続く