第十三章「兄弟の対立」第二百四十三話
「ドルスス、聞いてくれ!」
「うるせぇ!」
ドルススお兄様の怒りは、虎のように荒々しい息づかいで、両肩をあげながら吠えている。一方、床に跪いたネロお兄様は、憐れみにも似た懇願をしている。
「なぜ?!俺とサルビアが別れなければいけないんだ?!ふざけるな!」
「落ち着いて聞いてくれ、ドルスス!詳しくは今、語ることはできない。ただ、お前を不幸にしたくないんだ」
振り上げたドルススお兄様の拳は、今にも振り下ろそうな勢いで震えていた。しかし、ネロお兄様はクラウディウス叔父様から、決して激情に駆られても「密教トゥクルカ」の秘密を漏らさないように忠告されている。秘密を知る者が多くなれば、それだけ命の危険に晒される者が増えるからである。
「ネロ!この間の事にしたって、俺はお前を許したわけじゃないからな!貴様に、苦渋を舐めさせられる者の思いが分かるか?!」
「……」
答えられなかった。
先日クラウディウス叔父様から伝えられた深く重い憤りが、激情に駆られそうな自分を締め付ける。理解はできるが、分かることはできないんだと。
「くそ!意気地無しめ!」
「ドルスス。今は何も言えないんだ。ただ、サルビアとは距離を置いて欲しい」
「もう俺には関わらないでくれ!」
「ド、ドルスス?」
「このままでは、本気であんたの事が嫌いになっていく。そしてあんたの事を排除しなければ、自分の苛立つ気持ちを抑える事ができなくなる」
そう捨て台詞を吐いて、ドルススお兄様は背を向けて歩き去った。一人残った歯痒い気持ちのネロお兄様は、止められない正義感を秘めている。密教トゥクルカに自分の弟が取り込まれるのも時間の問題、もはや残されている方法はただ一つ、直接サルビア・オタへ結婚を解消することを進言する事であった。
「ちょっ、ネロ様、腕を離してください!」
「お願いだ、サルビア!うちの弟に結婚を諦めるよう伝えてくれないか?!」
「はぁ?!なぜでしょうか?!」
「あいつは一時期の迷いで君を選んだだけなんだ。君がしっかり断れば、あいつだって諦めがつく」
「やめてください!どうして私がそんな事を、ドルススに言わなければいけないんですか?!」
それは言えなかった。
密教トゥクルカに関わる事は、他言無用でなければ命の危険性が高まる。まして、サルビアはどっぷり浸かった信者なのだから。
「?!」
突然である。ネロお兄様は床に倒れた。後ろから見事にドルススお兄様の手の甲が、ネロお兄様の頬へと吸い込まれたのだ。同時に間髪入れず、ドルススお兄様はネロお兄様の背中から腹部を蹴り飛ばす。抵抗できず苦しむネロお兄様に、動きを見せれば何度も何度も執拗に蹴り続けた。まるで己の亡霊を退治するかのように。暫く弱まったネロお兄様に唾をかけ、サルビアの手を救い、そしてご自分のそばへ引き寄せる。
「ドルスス!助けてくれてありがとう!」
「サルビア!お前は向こうへ行ってろ!」
「え?」
「いいから!お前は帰得るんだ!」
憎しみに溢れたドルススお兄様に慄くサルビアは、その場から縁を切るように去っていった。地面では、身体中を痛がるネロお兄様の様子に、視線を決して外さないドルススお兄様。自分に対し殺意を剥き出しているのが、ありありとネロお兄様も感じている。
「関わらないでくれと、俺は言った筈だよな?それが何故サルビアに直接向けられるんだ?!」
「ド、ドルスス。お、お前は何も、分かっていないんだ…」
「黙れ!そんなに自分の地位が俺に脅かされるのが怖いのかよ?!ああぁん!」
「ち、違う」
「ムカつくなら殴り返せよ!」
「そんなんじゃ、ない」
「だったら何なんだよ!てめぇーわ!?」
弱まったネロお兄様の首根っこを掴んで、ドルススお兄様は思いっきり拳を振り上げた。何度も血を吐いても、それでも抵抗せずに、弟の屈辱感を必死に受け止めようと一枚の黒硬貨を手渡す。
「キ、キメラにだけは、近づくな」
続く