第十三章「兄弟の対立」第二百四十一話
翌年、母ウィプサニアは自分の身内で固めた十二神祇官に、長兄ネロお兄様と弟のドルススお兄様の名も加えて元首への祈願祭式に参加させた。
"ほほう、今年はカエサルの血を引く兄弟の為の祈願か"
"これはまた手厳しい批判だな。"
"だが、ウィプサニアが後ろで手を引いているのは確かだ"
"確かに。あの兄弟を保護するように、ウィプサニアの息の掛かった神祇官ばかりだ"
アシニウス様から強引に勧められた形での参加であったとはいえ、母ウィプサニアも決して異を唱えず、これは幸いと公に対立した兄弟への悪評を払拭する良い好機ととらえた。コッケイウス家のネルウァ様は、お二人のお兄様達が十二の神祇官として列する事は、最高神祇官でもある元首のティベリウス皇帝の機嫌を損ねると助言していた。そしてそれはネルウァ様の予想通り、現皇帝から時期早々であると苦言を申してきたのであった。さらに、母ウィプサニアに同情して支持を表明していた共和政支持者の元老院達からも、神聖なる元首への福寿と安泰を祝う祭式にて、帝位後継者候補として有力視されているネロお兄様とドルススお兄様を十二神祇官として列したことは、ユリウス家は自分達の神威を高めるために利用したとも捉えられてしまったのだ。
「だからわしは苦言したのじゃ、アシニウス殿。物事は常に慎重に進めなければ、せっかくわしらを支持を表明している共和政元老院達からも掌を返されてしまう可能性があるじゃろ?彼らは皇族による権力の集中にはアレルギーを持っている。英雄ゲルマニクスを失った悲劇の家族ユリウス家に同情していたのは、結果的にクラウディウス氏族へ権力集中を感じていたからだ。元老院が掌を返せば、例え英雄ゲルマニクスを称えるローマ市民でさえも、彼らに同調して掌を返すこともありうる!」
だが、その苦言に異議を唱えたのは、なんと母ウィプサニアであった。
「お言葉ですが、ネルウァ様。それは些か過剰に反応し過ぎであると思われますが?」
「なんじゃと?」
「むしろローマ市民の民意は、現皇帝ティベリウスが我がユリウス家に対して、偉大なる祖父である初代皇帝神君アウグストゥス様の、遺された意向に背いて居座り続けていることに、もやは限界と感じているのではないでしょうか?」
「いかんいかん、ウィプサニア殿は焦っておる。確かに民意はそうかもしれんが、しかし実際に政治を扱う者達は元老院の彼らなのだ。」
「しかし、ネルウァ様はご存知でしょうか?昨年のドルスッス様亡き後からも、市民達は至る神殿の壁に落書きを書かれていることを?」
「それは知っておる。だが、落書きは落書きじゃ」
「さて、そうでしょうか?国家を間接的に茶化すものは今までにあれど、これほど直接的に、我が夫を返せと描かれた落書きがありましたでしょうか?」
ネルウァ様は母ウィプサニアの表情を射抜くような形相で眼光を放つ。
「過信ではおるまいな?ウィプサニア殿」
「いいえ。真実でございます」
私は『真実』として何かを語る者には懐疑的だ。その原因は明らかに、この頃に母が何かにつけその言葉を頻繁に使いだしたからだと思う。自分が正統な血筋を持つ人間であることに過信し、相反する他人の意見を抑え、真実という言葉で自分の主張を正当化する姿。そして国家の政権奪還の為なら、お父様の威光を利用しつつ、永遠の誓いをも蔑ろにして、再婚の承諾を求める為に、皇帝へ直訴する愚かな女へと成り下がっていった。『真実』という言葉は、私にとって『ローマの為に』と頻繁に叫ぶ、薄っぺらい人間の自己顕示欲を昇華させる手段としか感じられないのだ。
「では、そなたがそこまでに、強く主張するその根拠はなんじゃ?」
「カエサルの威光がこの世に平和をもたらし、そしてこれこそが現代のローマにおいて、市民を一つの心に繋ぎとめる真実であると感じるからです。」
「確かにその意見は最もじゃ。しかし、それは時と場合を間違っては、己の首を絞めかねん。忘れたのか?あの大胆にして慎重な初代皇帝アウグストウゥス様とて、元老院の意向を無視せずに行ったことを」
「存じ上げております。しかし祖父が築き上げた物を蔑ろにしているのはどちらでしょうか?」
「では、今からちょうど六十年前の三月十五日に起きたことを、忘れておるわけではあるまいな?」
ユリウス氏族のカエサル家全員にとって、自分の一方的な発言に慄いてしまう忌まわしい日付がある。そう、権力が一つに集中することを恐れた元老院達から、あの神君カエサル様が暗殺された日こそ、この呪われた三月十五日なのである。
「ウィプサニア殿。わしは、そなた達の子供やこれからの未来を案じておるのじゃ。今は己の思いを優先せずに自重なされ。そもそも、今回の祭式においても……」
だがアシニウス様は、ネルウァ様の言葉を遮るように異論した。
「ネルウァ様は、私の提案した策がお気に召さないのでしょうか?」
「アシニウス殿?突然どうしたというのだ?わしはそんなことは論じてはおらん。」
「私はローマ市民の意向を汲み取って、慎重に重ねた上で今回ウィプサニア殿へ提案をしたのです。それに対して愚策とでもいうのですか?」
「有力元老院議員の一人であるそなたを、安易に批判しているわけではござらん。ましては、愚策などとは思ってもいない。」
「ならば、なぜ?わざわざ神君カエサル様の暗殺された日を持ち出して、ウィプサニアの崇高な情熱と正統性を抑止しようとされるのか?!」
「落ち着きなされ、アシニウス殿も。」
「これが落ち着いていられますか?!ネルウァ様には聞こえないのでしょうか?このローマにユリウス家の神威が返り咲く事を、心から待ち望んでいるゲルマニクスの部下達の足音が!」
「なに!?ゲルマニクスの部下じゃと?」
指導的市民と呼ばれるアシニウス様の一声によって、ゲルマニクスお父様の元ローマ兵士達が、今や母ウィプサニアの支持に回っていたのは確かであった。それに加えて、祭式おけるティベリウス皇帝の苦言を聞いた彼らは、私達家族への不信の表れと捉えたのである。その数は祭式を境に増大し、私達が住む母ウィプサニアの別邸ヴィッラへ何度も訪れていた。
「ウィプサニア殿は、これを承諾したのか?!」
「はい、ネルウァ様。これ程の機会を断る理由がどこにありましょうか?」
見方を変えれば、母ウィプサニアを中心とした派閥は、もはや保守的な皇族に対して反発する単なる一派閥ではなく、ローマ国家に対して亡き夫の武力を利用し、政権奪回を目論むために組織作りをしている党になってしまっていたのだ。
「いいかい、ネロ、ドルスス。あんた達は一つの目標に向かって生きて行くの。理不尽な社会を作り出した醜悪なる者達へ、然るべき報いを与えるために!」
そして母の過信はアシニウス様を狂わせ、ネロお兄様とドルススお兄様の溝を深めてしまう。
続く