第十三章「兄弟の対立」第二百三十五話
一方、ドルススお兄様は、婚約者である年上のサルビア・オタとの交際を続けていた。しかしこの事が、長兄ネロお兄様との対立を生んでしまう。
「サルビア!」
「ドルスス!」
注目される長男に比べ、次男というのは愛情に飢えているように思える。特にドルススお兄様は母ウィプサニアと衝突していたので、何処かで優しかった母親を独り占めしたい心があったと思う。母ウィプサニアの代わりがサルビアだったのかもしれない。
「全くドルススは甘えん坊なんだから、すぐ私に抱きついてきて」
「いいじゃないか、サルビア。僕は世界中で一番安らげるのは、君とこうしていられる時だけなんだ」
「だから好き。あたしの可愛い可愛いドルスス」
サルビアの胸元に顔を埋めるお兄様は、彼女に母親と女性の役割を演じさせていた。しかし同時にサルビアという女性は上昇志向の強い性格なので、自分の男が二番というのには我慢ならないようだった。
「ねぇ、ドルスス?」
「うん?」
「貴方のお兄様は、この間元老院でアシア属州の保護者として感謝の意を伝えたのでしょう?」
「うん、まあね。良かったよ」
「そんなことより、ドルススはいつ頃なれそうなの?」
「え?」
「えって、決まってるじゃない。何処かの保護者によ」
「まだ僕は財務補佐官だから、まだまだ無理だよ。それよりも、僕らの結婚の方が先だろ?」
「どうして?」
「どうしてって、忘れたのかい?」
「何を?」
「僕が成人してローマ市民の一員になれば、サルビアは僕と結婚してくれるって言ったじゃないか」
頬に口付けをしようとしたお兄様だったが、サルビアの表情は冷たく避けてしまう。
「サルビア?どうしたんだい」
「別に」
「別にって」
「あたしは少なくとも、普通のローマ市民でなく、立派なローマ市民と結婚したいの。今のドルススはまだまだ養子縁組である皇帝から受けた恩恵だけじゃない」
「そ、そんな事ないさ。僕だって自分なりに色々と頑張ってるよ」
「でも、貴方のお兄様は属州の保護者、それも与えられた職責を利用して立派に職務を全うされてるでしょ?それなのにドルスス、貴方はこんなぬるま湯で満足しててイイワケ?」
「ぬるま湯だなんて、そんな言い方ないだろ!」
「あら、ではアグリッパ様の浴場の方が、貴方の情熱よりもっと熱いと言った方がいい?」
「お爺様の作った浴場は関係ない!」「違うわよ、貴方には野心を燃やす情熱が足りないって言ってるの」
いちいち最もな言い方をするサルビアに、ご自分がいつも日陰の中にいる気分にさせられてしまうドルススお兄様であった。
「ドルスス、私は虎のような男性が好きなの。寝ているだけなら大きな猫だわ。だから今度までに、私の両親が二つ返事で喜ぶような報告を頂戴。それまではしばらくお預けよ」
「え?ちょっと!」
まるで風に誘われた枯葉がクルリと回るように、サルビアはスルスルっとドルススから抜けてしまう。追いかけるドルススであったが、頑なに拒否反応を示すサルビアの背中に、追いかけようとした足は重たくなってしまった。
「ちっ!どいつもこいつもネロ兄さんと僕を比較しやがって」
地面を蹴って悔しがるドルススお兄様の姿を、影からひっそりと見つめていたのは、その張本人である長兄ネロお兄様だった。
「ドルスス……」
この時初めてネロお兄様は、なぜ次男が母親に反抗してまで、早く成人式を迎えたがっていたのかを理解した。正義感に溢れ、弟想いのネロお兄様は、どうかサルビアに思い直すよう懇願する為、彼女の後を追ったという。もし機会があれば、彼女の父親であるサルビアヌス・オトにも懇願するつもりでもあった。
「サルビア、お入りなさい」
「はい、親方様」
だが、サルビアは自宅のドムスへ帰る気配さえ無い。親方様と呼ばれた男は、辺りを見渡しながらとんがり帽を外し、模造建築の住居へサルビアを用心させて入っていった。
「ハルスペックス?」
ネロお兄様は目を疑った。
確かに親方様と呼ばれた男は、あのとんがり帽子を持っていた。
「クラウディウス叔父様に報告した方がいいのか?」
もしここの住居が密教トゥクルカの隠れ場としたら、ドルススの婚約者サルビアも密教の信者となる。湧き立つ興味を抑えきれなかったネロお兄様は、用心をしながら住居の扉に近付く。だが、例のキメラの円紋章らしき物は見つからない。
「良かった。これでドルススの恋人は関係が……」
しかし運命は意外な足元に落ちている。ネロお兄様は、扉のそばで黒光りする奇妙な硬貨を見つけたのだ。その硬貨の裏に刻まれている円紋章こそ、密教トゥクルカを表すキメラであった。
続く