第十二章「落命」第二百二十八話
あの牛魔皇帝ティベリウスにも、人並みの涙が流れていた。
実の息子であるドルスッス叔父様の知らせは、六十六歳を迎えようとしている皇帝にとって、正に寝耳に水の如くであった。実の母親である大母后リウィア様より聞かされた悲報に、吐き気や息苦しさを訴え、大粒の涙を流して泣き崩れたそうだ。
「我が息子のドルスッスよ!なぜ、お前がわしよりも先に逝かねばならないのだ!?」
英雄ゲルマニクスお父様が亡くなって以来、ローマ市内にもようやく、希望という光が灯しだした矢先の国葬。そこには、ローマ法の前で誰もが平等であると訴えていた皇帝が、悲しみに暮れて参加していたのだ。お父様の国葬には、不参加を表明したのにである。当然ローマ市民達の目には、不平等さと滑稽さを表した喜劇にしか見えなかったのだ。
"我らの英雄ゲルマニクスを返せ!"
"名ばかりの牛魔皇帝、愚かなり!"
国葬が終わった後、クラウディウス叔父様はネロお兄様を呼び止めていた。
「ネロくん。」
「クラウディウス叔父様、どうしました?」
暗殺や陰謀などの類は、先日アントニア様からきつく制止されていた。しかしクラウディウス叔父様は、ネロ兄さんが一人になるのを見計らって呼び寄せている。
「ネロくん、ドルスッスさんの遺志を受け継いでくれ。」
「ドルスッス叔父様の、遺志?」
「ああ。」
クラウディウス叔父様は真剣であり、そして緊急を要するようだった。
「ドルスッスさんは、不正に膨れ上がっていた公共事業費の調査をされていた。その中で『キメラ』という名を冠に持つ、材木及び資材調達の下請け業者を見つけた。だがこの社名はエトルリア語で巧妙に細工されたアナグラムであり、王政ローマ第五代王になったエトルリア人のタルクィニウス・プリスクスの愛称を指す『ルクモ』である事が判明したのだ。」
「ルクモ...。」
「そこで私とドルスッスさんは密かに、その下請け業者である『キメラ』を調べる事にした。表向きは業者を装っていたのだが、裏では現行ローマ国家に怨念を抱く、一部のエトルリア出身部族で構成された密教トゥクルカだったのだ。」
「密教?トゥクルカ?何なんですか?」
「トゥクルカとはエトルリア文明に伝わる地下世界の悪魔の事だ。両腕に蛇を巻き付けた姿で表され、鼻はハゲワシの嘴、髪の毛は蛇、驢馬の耳、そして翼を持つ魔神だ。しかし、身体は人間と同じ作りになっており、男性衣服のトーガに似た物を着用している。」
「エトルリアの悪魔...。」
「トゥクルカは、キメラの死の際にその魂を土の中で葬り去った事により誕生したとも言われている。すなわち、この説が正しければ、キメラの死がなければトゥクルカも誕生しなかったという事だ。」
明らかになっていく事実に、ネロ兄さんは受け身で応えるしかない。あまりに嘘みたいな事が、次から次とクラウディウス叔父様の口から語られていくからだ。
「サビニ系ローマ人はエトルリアの王を追放した。分かるな?サビニ系で有名な氏族はどこかを。」
「現皇帝や大母后様を筆頭とした、クラウディウス氏族ですね」
「そう、そして次期三代目皇帝の継承者であるドルスッスさんが亡くなったのだ。これが病死や偶然などと言えるか?」
「でも一体誰にですか?」
その瞳を暫く眺めたクラウディウス叔父様は、ゆっくりと注意深く答えた。
「それは、今この時期にネロくんへ伝えることはできない。」
「どうしてですか?!」
「少なからずとも首謀者は、クラウディウス氏族や神君カエサルの血を引く我々ユリウス家ではないだろう。しかし、この二つの士族に関わるものが関与したことは間違いない。」
「家族や親戚がですか?!」
「はっきりとした確証はない。だが、協力者がいたとすれば、ドルスッスさんを暗殺することは容易いことであろう。」
「そ、そんな!身内に協力者が!?」
「身内だけとは限らないだろう。」
「そうですね」
「とにかく私は、できる限りドルスッスさんの死の真相を探る。しかし政治に関与することは、残念ながらこの吃音と足のせいで遠ざけられている。そこでネロくん、君はできる限りで構わないから、真相を探ってくれないか?」
ネロ兄さんにある生来の正義感が、これらの不正に対して無視できない想いを湧きたてていくようだった。そして、その目つきは明らかに、先日亡くなったドルスッス叔父様とそっくりであった。
「ただし、首謀者と確実な証拠が挙がるまで、この事はネロくんと私二人だけの秘密にしてくれ。」
「何故ですか?」
「彼らを深追いしたり、政治的に利用すれば、第二、第三の悲劇が必ず訪れる。何としてでも、それだけは避けなければいけない。」
「分かりました。」
こうして密教トゥクルカに関する調査は、水面下でネロお兄様へ引き継がれていく。
続く