第十一章「追憶」第二百二十一話
「あの…。」
アグリッパ様はすぐに振り返って、オクタウィアヌス様の前に立ちはだかって身構えた。一方マエケナス様はピタリと動かず、右手の親指で顎を摩ってこちらを睨んでいた。そう、この三人に声を掛けたのは、若き日の頃の大母后リウィア様だった。
「き、君は、リウィア?そうだよね?」
「はい、リウィア・ドルシラです。」
マエケナス様は、少し安心して悪態をついた。
「ケッ、オクタウィアヌスがさっき見つけた女じゃねぇか。」
「…。」
「一体、俺たちに何の用だい?お嬢ちゃん。」
「おい、マエケナス!」
「ガキと付き合っているほど、こっちは暇じゃないんだ。」
「存じ上げております。もし良かったら、その短剣を私に下さらない?」
生きた獲物でも殺しそうな、まさしく狼のような二人の眼光が、大母后リウィア様へ突き刺すように向けられる。だが、若きリウィア様は右手で精一杯の握り拳を作りながら、必死に怖さを隠しながら虚勢を張っていた。
「オクタウィアヌス、この娘の始末はどうするんだ?」
「え?」
「ポメリウムで短剣を所持していることが暴露たんだぞ。」
アグリッパ様は微動だしない冷徹な目付きでじっと若きリウィア様を見つめていた。
「アグリッパに殺させるか?」
「…。」
「待ってくれ。」
「?」
命令あらば直ぐにでも、大母后リウィア様へ飛び込む準備ができていたアグリッパ様をしっかりと制止する。
「リウィア、君は僕を助けようとしてくれるのかな?」
「もちろんです。」
美しさが惹きつける力は、時を選ばず気付いた者の前には必ず訪れる。当時のオクタウィアヌス様と若きリウィア様の前にも、神々はしっかりと訪れた。見つめ合う時ではない状況にも関わらず。
「リウィアに任せよう。」
「はぁ?な、何を言ってるんだ?オクタウィアヌス。」
「マエケナスの言うとおりだ。」
「いいかぁ?今さっき会った女を、どうしたらお前って田舎者は信用できる?」
「僕が気に入ったからさ。」
「はぁ?!」
「…。」
「どう考えたって、このまま僕らの力で解決出来る問題じゃない。それならいっそう、リウィアに任せた方が上手くいくかもしれない。」
「オクタウィアヌス、お前って田舎者は都会の女に騙されてるだけだよ。」
「いや、少なくとも、僕の目には曇りは無い。」
言い切った。
オクタウィアヌス様は、胸を張って堂々と二人の前で、そう宣言されたのだ。若きリウィア様が握られていた右手の拳も、その言葉でようやく和らいでいく。
「アグリッパ、お前はどうするんだ?」
「…。」
「ほれみろ!オクタウィアヌス。お前の親友も困ってるぞ。」
「いや、マエケナス。オクタウィアヌスが望むなら俺もそれに従う。」
「な、なぁんだって?!」
「お前も言ってたじゃないか。『今夜がダメだったとしても、僕らは近い将来、三人で支えながらこのローマの中心にいることになるだろう。』っと。」
オクタウィアヌス様は満面の笑みをこぼしながら、両手を広げている。きっとその一瞬だけはマエケナス様にとって神君カエサル様姿がダブったのかもしれない…。こうして若きリウィア様は、ご自分の下着の中の胸元へ短剣を隠したまま、厳かに行われた故人を偲ぶ会を堂々と過ごされた。
「アントニウス様?」
「うん?」
リウィア様はそれだけでは飽き足らず、なんと身分を隠したままのオクタウィアヌス様とアントニウス様を更に偶然を装って引き合わせたのだ。結局、アントニウス様からオクタウィアヌス様はカエサル様の遺産を返却する承諾は得られなかったのだが、その堂々とした佇まいと恐れを知らぬ冷静な懇願には、カエサル様の単なる親戚の小童と思っていたアントニウス様にも十分な印象を与えることとなったという…。
「私があの人を守った事により、それが例え間接的であったとしても、カエサル暗殺に関与した者達がクィントゥス・ペディウスの法により、断罪されて処刑されることは避けられなかったでしょうね。」
「…。」
「当然私の父も追放リストに名前が載り、私たち家族は亡命を余儀なくされてしまったの。」
「リウィア様…。」
「亡命した父は当然カッシウスやブルートゥスに加勢し、フィリップで戦って自決したの。あっという間だったわ。」
少し薄暗いドムスの天井をみつめたまま、大母后リウィア様はご自分の矛盾と混沌をさらけ出してくれた。
「今でも何で私があんな事をしてしまったのか、不思議でしょうがない時もあるのよ。結果的に自分の父の命を奪い、そして父の命を奪ったあの人と結婚していたのだから。」
私は大母后リウィア様が辿られた多くの苦難に、ただ平伏して床を見つめるだけしかできなかった。
「でもね、アグリッピナ…。」
ところが大母后リウィア様は、わざわざ近付いて私の顔を上げるように微笑んでくださった。
「自分のした事や起きてしまった事に後悔だけはしなかった。どんなに現実の苦境から逃げだそうとしても、冥界の神プルートーのように何処までも捕まえようと追いかけてくるわ。」
「リウィア様…。」
見上げる私をしっかりと見つめ、そして当たり前の事を教えてくださった。
「ユリア・アグリッピナ。」
「はい…。」
「例え死神になどに追いかけられようとも、それは貴女の弱い心が作り出した幻でしかない。」
「はい。」
「だから私と同じように貴女も、いつでも強く、そして賢くありなさい。」
「え…?」
そばにいたアントニア様も、大母后リウィア様が私に仰る事がどんな意味なのかを理解し、そして口を開いて驚くしかなかった。
「リ、リウィア様…。」
「そのようにあれば、いずれ貴女も、今の私のようになれます。」
威厳や神威だけではない、まるであたかも事実を述べられているような言葉。その言葉は重厚であって安易な気休めでは無い。それは自分の曽孫であっても、贔屓するような女性ではないからだ。父を喪失した私の空洞の心に光が照らされると、暗闇の中から希望に満ち溢れた顔をした乙女の姿が現れる。国家の母へ憧れを抱くもう一人の私が、ローマに広がる青空を眺めて瞳を輝かせていた。
続く