第三章「母」第二十二話
「ユリア…一人をですか?」
「ええ。」
神威に溢れた女神アルテミスのような輝きを放つように、大母后様の目がキラキラと高揚感が湧いてくるように輝いている。私は不安になった。でも、なぜか目尻に寄せられた優しいシワが、不思議な安心感も与えてくれる。お母様は少し口を開けたまま、大母后様と私の顔を行ったり来たりして、決断できない様子。
「なにも人質にして、とって喰らおうとしてるわけじゃないの。」
「もちろん、重々承知しております…。しかし、この娘はまだ四歳です。」
「あら?年齢は関係無いわ。私が同じ頃には、クラウディウス氏族の家をたらい回しにされたものよ。ウィプサニア、貴女が思ってるよりも、このアグリッピナちゃんは立派な女性ですもの。」
お母様が心配するのをよそに、大母后リウィア様に女性扱いされた私の心の中では、不思議な高揚感が湧いてきた。もし大母后様とご一緒したら、どんな事が待っているのだろうか?考えるだけでもワクワクが止まらない。
「フウ…。まぁ、いいわ。少し家に帰ってからでもいいから、考えてらっしゃい。」
「はい…。」
「では、リウィア大母后様、ウィプサニアちゃんとは、この辺で。」
ドルスッス様がうまく引き際を作ってくれた。しかし、大母后様はきつい表情でドルスッス様に苦言した。
「ドルスッス…。貴女は次期皇帝継承者なのですよ。もういい加減、その言い方をおやめなさい。」
「はい?」
「ティベリウス皇帝であるあの子は、未だに貴方の母親を忘れられないのよ。」
「母さんを…ですか?」
「そうです。皇帝陛下のご気分が悪くなる様な言い方は、本日からおやめなさい。」
私は大母后様の注意がなんだったのか、当時は見当がまるでつかなかった。後でネロお兄様から伺った事によると、お母様の名前であるウィプサニアを馴れ馴れしく呼ぶ事が、ティベリウス皇帝の機嫌を損ねる事らしい。なぜなら、お母様とティベリウス皇帝の前妻は同姓同名のユリア・ウィプサニア・アグリッピナ。二人は腹違いの姉妹であり、年齢はお母様とは一回り違うのだが、ドルスッス叔父様のお母様はアウグストゥス様の盟友アグリッパ様と、最初の結婚相手でキケロの書簡の宛名人として知られるティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの娘ポンポニアとの間に生まれたのだ。だが、ティベリウスとドルスッス叔父様のお母様は、跡継ぎ継承の為に初代皇帝から無理矢理離縁させられた。そして、ティベリウス皇帝はアウグストゥス様の娘と再婚させられたのである。そのことがいまだに、ティベリウス皇帝の心底に深く遂げとして残っているらしい。
「分かりました…。」
「以後気をつけるのよ。」
「はい…。」
私達は大母后様の間から離れ、宮殿を後にした。私はお母様から手をしっかりと握られたまま、腕を引っ張られるように外へ連れてかれる。私はきっとまたお母様から叱られるのだと思った。
「ユリア…。」
「お母様?」
馬車のある場所へ行くなり、面前で私はお母様から物悲しい抱擁を受けた。お母様はしゃがみながら、まるですがるように私を抱きしめ、目尻には大粒の涙が溜まっている。
「ユリア…ごめんなさい。」
「え?お母様?」
ネロお兄様もドルススお兄様も、ドルスッス様も、みんな重たい表情で私を見ている。お母様は小刻みに肩を震わせながら、それ以上はなにも言わずにすぐ馬車へ乗り込んでしまった。ネロお兄様がしばらくの間、窓際でお母様とお話をされると、サーっとお母様は窓際の布で馬車の中へ閉じこもってしまった。離れたネロお兄様は一生懸命取り繕った笑顔を見せながら、優しく私へ話しかけてくる。
「ユリア…お兄ちゃんの馬車へおいで。」
「え?どうして?お母様は?」
「お母様は…今はあまり体調が良く無いんだよ。」
私はネロお兄様に手を取られて連れてかれる。でも、ずっとシコリを残されたような気分で、お母様の馬車を眺めている。物悲しいその馬車の姿は、まるで一切の想いを外の世界と断ち切るように壁を作って拒絶していた。
そう、私は知らなかったのだ。
お母様はゲルマニクスお父様に会いに行く為、私を大母后リウィア様へ預ける覚悟をされた事を…。
続く