第三章「母」第二十一話
「まぁ可愛い子。名前は?」
「あの…リウィッラです。」
「あら、私の名前からの影響で?」
「ええ、まぁ…。」
本当はドルスッス様の奥様である、リウィッラ叔母さまから付けたのだけれど、お母様は多分恐くて言えなかったんだと思う…。
私達は大母后リウィア様の計らいにより、謁見の間での難を逃れて大母后様の間に招待されている。とても由緒ある、そしてギリシャ文化を取り入れた優雅な作りの間。 私はジロジロと色々な物を羨ましそうに眺めていた。
「レスヴォス島は綺麗だったでしょう?」
「はい…。とても素敵な場所でございました。」
「私はよくあそこの海で泳いだものです。まぁ気取り屋が多いのが難だけれども。フフフ…。」
お母様は大母后リウィア様に合わせて微笑んだ。無邪気なリウィッラはキャッキャと笑ってる。その笑い声に、さっきまでの威厳振りかざしていたリウィア様はすっかり顔を和ませていた。本当にこの人が70歳をすでに迎えている容姿に見えない。せいぜい50代くらい。私は勇気を絞って大母后様に質問してみた。
「大母后様は、どうしてそんなに若々しいのですか?」
その一瞬、お母様もドルスッス様も凍りついたような蒼ざめた表情をしていた。リウィッラを抱っこしている大母后様の目は真ん丸に見開いて、私をじっと見ている。
「アッハッハッハッハ!」
次の瞬間、泡が弾けるように大母后様の大きな笑い声が鳴り響いた。一同も様子を見ながら苦笑し始めるが、あまりの笑いに、大母后様だけがあっけらかんとして、目尻に涙を溜めて笑い続けてる。
「貴女、お名前は何っていうのかしら?」
「ユリウス家の長女、ユリア・アグリッピナと申します。」
「アグリッピナちゃん?素敵な名前ねぇ。そうね、一番は水泳よ。どんな時にでも海で泳ぐようになさい。そうすれば、筋肉はちょうど良く引き締まって、お腹や背筋もしっかりと引き締まるの。」
「水泳…ですか?」
「ええ、とにかく海で泳ぐ事です。アクア様のお力で随分と変わります。」
後でお母様が冷や汗で肝を潰したと語るほど、私の素朴な疑問は、幼さ故に無垢で残酷な質問だったのだが、大母后様は優しく答えて下さった。
「申し訳ございません、大母后様。うちのユリアが大変失礼な事を…。」
「あら?私の年齢に関わる事は、そんなに失礼な事なのかしら?」
さらにお母様は凍りついてしまった。
「いいえ!滅相もございません!」
「フフフ…冗談よ。いいのよ、そんなに堅苦しくしなくても。この子、アグリッピナちゃんは見込みあるわ。」
「ありがとうございます。」
私は褒められたと思って有頂天になった。ドルススお兄様は私に対し、意味が違うよっとでも言いたげに、険しい顔で小さく首を横に振った。
「男共は種だけ蒔くだけ蒔いて、とっとと自分の戦場に引きこもるでしょ?私達女がどれだけ腹を痛めて子供を産んでるのか、心を痛めて子育てしているか、ちっとも分かってないんだから。この子達の未来を守る為に、私達女はローマ内部で戦っているのです。アグリッピナちゃんのように、時には臆さず立ち上がる勇気も必要です。」
大母后様は立ち上がり、リウィッラをお母様に戻されて、御自分のストラをゲルマン人の奴隷に整えさせる。しかし、奴隷は誤って大母后様の髪の毛に触れてしまった。
「痛っ!」
「申し訳ございませんでした、大母后様!」
「気を付けなさい。」
「はい。」
すると、先ほどまでの和やかな表情から一転して、また再び威厳にあふれた鋭い表情に戻ってしまった。
「さて、夫であるゲルマニクスの所に行きたいという貴女の懇願だけれども、あの子もセイヤヌスもピソも、あまりいい顔はしてなかったわね?なんで貴女は夫のそばにいたいわけ?」
「あの…。」
ドルスッス様は、言い辛いお母様の代わりにお父様とピソの確執を説明された。その話に冷静に耳を傾ける大母后様の目は、なぜかギラギラと輝いてる。
「そう…。あの子はきっとゲルマニクスのお守りのつもりで、ピソを総督に任命したのでしょうけど、まだまだピソも子供ね。」
「ゲルマニクスの兵団は彼に忠誠を誓っております。このままピソ様との確執が続けば、事態が芳しくなくなる事必至ではないでしょうか?」
大母后様は人差し指を口許に付けながら、推敲を何度も繰り返しているようだった。
「分かったわ。何とかしましょう。」
「ええ?!」
お母様とドルスッス様は驚いて、お互いの目を疑った。
「シリア属州の攻防は、ティベリウス、あの子の計算違いもあるのでしょう。まぁ元々はゲルマニクスの人気にあやかってるのも事実。かと言って、政治的にも戦略的にも疎かにすべき問題ではありません。問題は、法律的に夫であるゲルマニクスの元へ行く事が、違法でないという事です。」
お母様の目は明らかに輝いた。ドルスッス様も喜んでらっしゃる。
「本当ですか?!大母后様?!」
「あら、私が嘘を付くとでも?」
「いいえ!滅相もございませぬ。」
「フフフ…。冗談よ。」
大母后様はちょっとした意地悪をするのがお好きらしい。
「エジプト入国する場合には、皇帝の承認が必要になるには分かっているはね?」
「はい。アントニウス様の一件からですよね?」
「そうです。エジプトは皇帝の私領になっているからです。けれどシリアに関しては、皇帝から直々にゲルマニクスへ指揮官として命令が出されてあるわけなのだから、すでに皇帝からの承認をもらっているという事になります。皇帝が自分への反逆罪の要因になるという証拠を出さない限り、家族を皇帝個人の感情だけで引き裂く権限は行使できないでしょう?」
私は幼いながらも、多角的に物事を冷静に捉えて、解決策を見出すリウィア大母后様にびっくりしてしまった。この人は単なる神格化された自分にすがって生きてるわけではない。それもそのはず、自分の息子を皇帝として帝位させる前に、夫であるアウグストゥス様を皇帝へと導いた方であるのだから。
「まぁ家族全員ってなると、皇帝としてのあの子の面子も潰す事になるでしょう…。」
「…。」
「どうです?そこのアグリッピナだけはローマに置いて行くのは?」
え?!
大母后リウィア様の突然の提案に、一同がビックリした。
続く