第十一章「追憶」第二百九話
雲を掴むような話も、雨が降ってしまえばどうなるんだろうか?
一方、愛するドルスッス叔父様から拳で殴られたリウィッラ叔母様も、心のすれ違いをしたまま追憶の日々を送るだけだった。強引だったとはいえ、セイヤヌスに自分を強姦する隙を与えてしまい、ズルズルと不貞の関係を続けてしまい、と同時に、夫が兄ゲルマニクスの寡婦ウィプサニアに奪われてしまうのではないかという不安に苛まれていた。
「ああ、ゲルマニクス兄さん。どうして死んでしまったの?どうしてあんな牝犬ウィプサニアなんかと結婚など!」
エトルリア出身の職人が作った緑色のガラスコップを見つめると、忌々しい気持ちが沸騰するように湧いてくる。何度壁に投げつけたことか。だが、その割ると音とも、自分の旦那であるドルスッス叔父様に殴られた記憶が蘇る。
「ああ、貴方。昔の貴方はもっと陽気な性格だったではありませんか。決して強気な女性にも手をあげることなく、死の淵へ誘われていた私を、何も言わずそっと抱きしめては救ってくださったではありませんか。」
アウグストゥス様の実娘と右腕アグリッパ様の息子であった第一の夫ガイウス・カエサル様が亡くなられた時、リウィッラ叔母様は絶望の闇をさまよっていた。政略結婚だったとはいえ、年端のいかない12歳での結婚は何かと情に流されやすい。事実私もそうだったから。"ローマの女性は二度目で愛を知る"とは、実に的を得た言葉だと思うが、誰が言ったのかは忘れたけど。
「私は忘れてないの。例え過ちを繰り返していようとも!ドルスッス、貴方への愛は今でも変わらないの。」
だからこそリウィッラ叔母様にとって寡婦となった後にドルスッス叔父様と出会えた事は、まるで太陽で世界を照らすような鮮やかさだったのだ。
リウィッラ叔母様が遺した遺書には、毎晩、肌と不貞を重ねあったセイヤヌスの事よりも、自らの手で死の淵まで送ったはずのドルスッス叔父様への謝罪と愛情ばかりが綴られていた。叔父様に毒を盛るまでの毎日は、美しかった二人の思い出ばかりを追憶していたという…。
「リウィッラちゃん?元気かい?」
「あ、ドルスッス様…。」
「曇った顔は君には似合わないよ。どうだろう?一緒にインスラへ遊びに行かないか?」
「結構です。」
典型的なアントニウスに憧れたローマ人。それがリウィッラ叔母様のドルスッス叔父様に対する第一印象だった。チャラくて女ったらしで遊び人。スマートな兄ゲルマニクスとなぜ仲がいいのか分からない。
「ドルスッス様をお相手する女はいくらでもいらっしゃるのでは?私は夫を亡くした寡婦。故に喪に服す必要があるのです。」
「リウィッラちゃん…。」
「あのー失礼ですが、女性にも気安くちゃんを付けて呼ばないでくださる?」
「あ、いや。」
「一体どんなおつもりなんですか?」
「あ、別にこれといって意味はないんだけど…。」
「ローマの全ての女性がドルスッス様の思い通りになるなんて、少しでも思わないことに越したことはないでしょうね。何せ身持ちの軽い女性ばかりではないのですから!」
リウィッラ叔母様の言葉は強烈だったが、ドルスッス様は苦笑いしながら、自分の後頭部をポリポリと掻いてるのがやっと。出会いでのリウィッラ叔母様の凍り付いた扉を、ドルスッス叔父様の陽気な性格で開くことにはまだまだ時間が掛かる時期だった。
「また来るよ、リウィッラちゃん。」
もう!
何て失礼な人なの!?嫌だって言っている事を平気で言うなんて…。こういう勘違いした軽薄そうな音が生き残ってしまうから、私の夫ガイウス・カエサルはアルメニアで負傷したままこの世を志し半ばで去ってしまうのよ!
「いつか、君の笑顔を見るためにね。」
それは意外な所で実現されることになる。
続く