第十一章「追憶」第二百八話
夫婦喧嘩しているわりには随分とドルスッス様の夫婦は仲が良いこと…。
などと、つくづく神官は思っていただろうに。母ウィプサニアは幼き乙女の気分で、ちょっかいを出すドルスッス様に笑を堪えられずにはしゃいでいた。こんな母の姿を見た時に、私の中では不思議な気分になった。いつも愛に満たされてる優しかった母とも、父を喪っていつも険しく厳しい母とも違っていた。まるで初恋を再び体現しようかとしているような感じだったのだろうか。
「もう!ドルサーったら!エッチなんだから。」
「ごめんごめん!でも、ああでもしないと女神ヴィリプラカの神殿の神官は信用しなかっただろうに。」
「突然触ってくるんだもん、びっくりしたって。」
「あははは、やっぱりアギーのお尻は柔らかいな。ゲルマに知られたら殺されるどころじゃ済まないな~。」
「そうよ!ドルサー。誰でも女が貴方の誘惑に引っ掛かると思ったら大間違いですよーだ!」
むにゅ。
ドルスッス叔父様は突然母の頬を軽く両手で摘まんでからかった。
「お尻だけじゃない、ほっぺもちゃんと柔らかい。」
「もう!ドルサー!」
誰だって年齢を重ねれば安らぎたい時があるし、泣きたい時だってある。それと同じように、笑って楽しく過ごしたい時だってある。特に幼い頃の自分を知っている者同士なら、他人には理解されないだろう、緩やかな川だって流れていることだってある。二人はただ、そんな川で朗らかにはしゃぎたかっただけかもしれない。
「さぁさぁ、先ずはアギーから。」
「えー!?あたしから告解?やだ、ドルサーやって。」
「僕からじゃ意味ないよ。それに"殴られた方"が先でしょう?普通。」
「ふぅ~。そういう時だけ口は上手いのね?」
「あははは、まぁ、一応政治家だからね。」
でも、母は嬉しかったみたい。
ゲルマニクスお父様が亡くなってから、妻や母親としての苦しみではなく、一人の女としての純粋な悩みを聞いてくれる誰かが欲しかったから。頬を膨らませ大きく深呼吸すると、腰に手をついて大きな声で女神ヴィリプラカへ向かって吠えだした。
「やい!大体あたしが何であんたなんかに殴られなければいけないの?!女は引っ込んでろって事?!何でも自分の思い通りにいくと思って!あたし達女だって、時には子ども達の母親の役目だけで見られるんじゃなく、一人の女として見られたい事だってあるんだから!」
ドルスッス叔父様はそれを聞きながらバツが悪そうだった。まるでリウィッラ叔母様の言い分を、母ウィプサニアが同じ口調で代弁をしているようだったからだ。元々、ドルスッス叔父様は女性には優しい方で、決して手をあげる事は皆無だったのだから。自分の信念に反した行動には、何処かで責められたい思いが募っていた。
「あんたはね!とっても女性に優し過ぎて、いっつもいっつも私はドギマギしていたんだから。それなのに肝心な私には優柔不断で避けてばっかりで、お花を持ってきても手に触れないし、目を覗いても見てくれないし、いっつも自分の事は後でゲルマニクスをお兄ちゃんのように思ってて後ろをくっついて歩いて。」
?!
ドルスッス叔父様は、母ウィプサニアがいつの間にか自分の事を言っていることに気が付いた。そう、幼い頃にゲルマニクスお父様がいたから、ほのかに想いを寄せていた母ウィプサニアを諦めていたのだった。
「例え親が決めようと、例え血脈が続かれようとも、あんたって人はいつまでもゲルマニクスの影に隠れて身を引くような人物じゃないでしょ?!あたし、知ってるんだから。本当はあんたがあたしのことを好きだったのを!」
「なっ?!」
「シーっ!旦那は妻の言い分を最後まで聞くのが原則でしょう?」
さっき自分のお尻を触ったドルスッス叔父様へ、仕返しと言わんばかりに腰を軽くつねってくすぐる母。
「だからね、女神ヴィリプラカ様。そんな人一倍に他人想いで陽気な性格なくせに、自分の事になるとからっきしな"旦那"の話を聞いてくださいな。」
「アギー…。」
もう、幼い頃みたいに目を逸らさないで。そんな想いが母に淡い恋心を募らせる。
「だってうちの"旦那"は…。」
そして、ドルスッス叔父様もまた、そんな想いに心を響き渡り囁く。
「僕の"妻"が、同じであるように…。」
優しく自分の掌に少女ウィプサニアの指先を乗せ、瞳を麗せながら言葉を添える。
「互いを想いあってるのですから…。」
そこには男女の生々しい欲情や、氏族としての思惑や野望などが入り込む隙間などない。ただ、二人は本当に自分達の幼い頃を取り戻すように、互いの心を綺麗に洗い流したかっただけなんだと思う。
「お、お母様?!」
「ネロ?!」
それが、夫婦喧嘩仲裁の女神ヴィリプラカの神殿でなければ、何も問題は無かったのかもしれない。
続く