第十一章「追憶」第二百三話
「お母様!お願いですからアグリッピナをちゃんと見てやってください!」
「…。」
兄ドルススは腹の底から憤慨している。当時は全く気が付かなかったが、私にも自傷に陥り易い部分があることを、しっかりと祖母アントニア様の系列から受け継いでいた。
「そこまで偉そうに言うのなら、兄であるあなたが妹を見張るべきでしょ?」
「お母様!」
「だまらっしゃい!いい?先ずは自分のやるべき事をしっかりと出来てから、初めて人に文句を言える立場になれるのよ。出来なければ、三倍四倍にして何も言わず努力に務めるものなの。あなたはただ、成人式を迎えたばかりで妹を出汁に使ってるだけじゃない!」
どうして?!
母はなぜ?そのようにしか捉えないのだろ…。
「なんて事を言うですか?!お母様!それこそ、その話と僕の成人式は関係ありませんよ!」
「なら、ガタガタ文句を言わずやりなさい!私無しでは何も出来ないでしょ?」
「…。」
リウィッラが私の手をとって震えている。私は薄暗い寝室に寝かされ、天井を眺めながら泣いていた。そっか、あたしって母とはもう合わないから、お父様に会いたがっていたんだ。
「ドルスス兄さん。」
「アグリッピナ、本当にごめんよ。兄さんが不甲斐ないばっかりに、お前達を苦しめてしまって。」
兄さんは悔し涙を流していた。私は嬉しかった。だって本当に兄ドルススがいなければ、私はどうなっていたか本当にわからないもの。リウィッラも堪らず涙を流してドルスス兄さんに抱きついた。きっと、相当私の行為は怖かったにしがいない。
「お前達のことは、必ずお兄ちゃんが守ってやるからな。」
「うん。」
「ありがとう…。兄さん、悪いんだけど少し横になってもいいかな?」
「疲れたのか?」
「うん、何だか今はぐっすり眠たい。」
「分かった。ガイウスが邪魔しないように見張ってるからな。」
「うん。」
そういうと二人は優しく扉を閉めて、こっそりと外へ出て行った。こんな時に、カリグラ兄さんが偉そうに皮肉の一つでも言いにやって来たら、私は本当に気が狂いそうになって発狂してしまうと思う。そうなったら今度こそ手につけられなくなってしまう。薄暗い天井に腕を伸ばしてみたけど、さっきよりなんだかだいぶ手前に迫ってきたような感じがした。きっと気のせいなのかもしれないけど。私は海老のように身体を丸めて横たわり、掛け布団をギュウっと握りしめながら静かに目を閉じた。
"ユリア?ユリア?"
暗闇の中で白い霧模様の影が何かを問いかけてくる。懐かしい響きなんだけど、でも、どことなく寂しげでやつれているようなか細い声。救いを求めてくるこの声に、私はどうしても近づきたくはなかった。なのに、両脚は懐かしさを求めて今にも走り出したい欲求に駆られている。
"こっちだよ、ユリア。どっちを見ているんだい?"
"誰?誰なの?"
"ウィプサニアは元気かい?ああ、きっと元気だろうな。"
"お父様?"
でも、その声の主はもっと違う雰囲気だった。懐かしいのにお父様とは違う。
"アグリッピナ!お前は悪い子だ。"
"ウィプサニアの言うことを聞かないなんて、お前は本当に罰当たりで罪深い人間だ。"
"誰?!誰なの?!"
闇の中を漂う白い霧模様の影は、ギョロ目でこちらを睨みつけ、腐りかけた肉ひだをボトボト落としながら、頬まで切り引き裂かれた笑みを返す。そう、この神こそ、あたしがローマの神々の中で最も毛嫌いする冥界の主プルートーだった。
続く