第十一章「追憶」第二百二話
「うわー!!とっても綺麗!」
「見て見て!アグリッピナお姉ちゃん、お庭がとっても広いよ~。」
「本当だねぇ~。よっしゃ!リウィッラ、どっちが先にあの一番奥の木までたどり着けるか?駆けっこ競争だよ!」
「いいよ~!」
「行くよ~…。それ!」
「あっ!ズルい!お姉ちゃん待ってぇー!ズルいよー!」
あれだけ引越ししたくなくて散々ふてくされてた長女が、兄妹の誰よりも新しい邸についた途端にはしゃいでいるのだから、そりゃ母ウィプサニアも全くあんたはなんなの?と怒鳴りつけたくなる気持ちだったのかも。特に自分の息子を持つようになってから、子供の自分勝手さやワガママさを身をもって知ることになった。でも、当時のあたしは大人の人間関係で窮屈な思いをさせられたパラティヌス丘から、伸び伸びと自由に遊べる新しいお母様のヴィッラ邸へ来れたことで、どこかで開放感を味わいたくて堪らなかったんだ。
「ほほほほ!相変わらず元気じゃのう、アグリッピナ殿は。」
「あ、コッケイウス家のネルウァ様!おはようございます。」
「この間の、頭の傷はもう平気かな?」
「はい、お陰様でフラフラもしないで大丈夫です。」
「ほうかほうか、良かったのう。」
「あ、おはようございます。」
「おやおや、そっちのおチビちゃんは末妹のリウィッラ殿かな?」
「はい。」
「二人ともここのヴィッラは気に入ってくれたかい?」
私達二人は満面の笑みで見つめ合い、力強くネルウァ様へご返事をしてうなづいた。
「はい!」
「ネルウァ様、有難うございます!」
「うんうん、良かった。ほら、遊んでらっしゃい。」
「はい!」
子供って現金だから自分に優しく何かを与えてくれる大人には、いい印象を持たざるを得ない。私とリウィッラは一生懸命走って走って走ったのに、まだまだ庭園はいっぱいに広がっている。ドムスに比べたらお庭の広さは半端なかった。私は何だか昔のお父様達と暮らしていた頃のヴィッラを思い出して、何はなく心が摘ままれたような感覚に陥ってしまい、シュンっと走るのをやめてしまった。
「…。」
「アグリッピナお姉ちゃん?どうしたの?」
「ううん、何でもないよ。」
「何か元気ない。」
「元気だって、な、何言ってるの。」
「本当に?」
「本当だって。ただね、あんたがまだお母様のお腹にいた頃、私は木登りしたんだけど降りれなくなった時があったの。」
「うっそだ!!!!わんぱくなお姉ちゃんが木登りして降りられないわけないじゃん。」
「本当だって。上るのは好きだけど、下りるのは嫌いだったの。」
何処かでずっと避けていた事があるとすれば、私がどんなに勝気でわんぱくでもずっと褒めてくださったゲルマニクスお父様の事だ。
「リウィッラ、お父様は本当に優しくて、家族の誰もが寂しい思いをしないようにしてくださった方。私がガイウス兄さんと喧嘩して木から降りれなくなった時も、その大きな両腕でしっかりと私を受け止めて抱えてくださったんだから。」
「フーン。そうなんだ。」
ふと、とっても悲しくなった。
今は一体誰が私を無償の愛で受け止めてくれるのかしら?未だにお父様は何処かで勇敢に戦ってらっしゃるだけで、本当はあの時のように颯爽と馬で駆けつけてくれるのでは?
「あたしが木登りして降りられなくなったら、お父様は以前のように来てくださるかしら?」
「え?!」
思い立ったら吉日。
私の両腕はウズウズして、私の両脚はワクワクして、この木の先まで登りたくなっている。そう、もう一度お父様に会えると思えるから!思うよりも先に手が枝を掴み、足が木の足場に乗っかり、先の方が細く見える緑の葉っぱでできた洞窟を抜けて行くように、私はどんどん進んで行った。お父様の笑顔が私を迎えてくれるように、いや、それを願うかのように、私はあの先まで上って、大声でお父様を呼んで、めいいっぱい飛び降りて、もう一度、もう一度、お父様にお会いするの。やっと、木の先に立てた時、私は大きな風を全身で感じながら、精一杯の大声でお父様の名前を何度も何度も呼んだ。そして、私の耳には不思議とお父様が馬に乗って駆け寄ってくる音が聞こえてきた。お父様が呼んでいる!あの時のように!
「アグリッピナ!」
え!?お父様!!
「やめろ!今すぐやめるんだ!」
「アグリッピナお姉ちゃん!飛び降りるなんてやめて!」
ドルスス兄さん…。
リウィッラが知らせてくれたんだ。でも、なんで?どうしてお父様でないの?
「いいか!?お前が待っているお父様は、もうこの世にいないんだ!」
「うそ!絶対にいらっしゃる!私がこうやって木登りして困ってた時、いつも思いっきりジャンプしたら受け止めてくれたもん!」
そうよ!決まって困った時に、
いつだってお父様は馬に乗って…。
「ゲルマニクスお父様は死んだじゃないか!」
一瞬、お父様の小さな遺灰が頭を過る。
そして死というものが本当に怖くなって足がガクガクして、立っていられなくなった。高い所にいるからじゃない。ドルスス兄さんは私をジッと見つめて、降りてこいと言葉に出さずに物語っている。私は流れ落ちる涙をすすり、大空に散っていく自分の淡い気持ちを雲達に乗せていた。
続く