第三章「母」第二十話
どう猛さを秘めた牛魔皇帝ティベリウスの一言は、他の者を圧倒させる力があった。目の下にある分厚いクマの皺をキツく硬めながら、お母様の方へ淡々とした表情で睨みを返している。
「セイヤヌス、答えてやりなさい。」
用心深さにかけては他の皇帝よりも長けているらしい。目下の者に対しても、決して奢った口調で相手を抑え付けるような言動はしない。だが、それは同時に誰も信頼していない言動である証拠。代わりに激情的に弱者を抑制するのは、野心あふれるトカゲの親衛隊長官セイヤヌスの十八番だった。
「ウィプサニア!ピソ総督は聡明にして寛大なお方である。また、その実績と経歴は、現在のシリア属州までの活躍を踏めば一目瞭然である!お前の今の発言は、皇帝陛下より直々に提案され、元老院共々決議されたものを侮辱するものとも考えられる!」
「いえ、私はただ、自分の夫であるゲルマニクスのそばで支える事だけを懇願したのであります。ピソ様や皇帝陛下を侮辱など、滅相も…」
「黙れ!ウィプサニア。親衛隊長官である、このセイヤヌスが発言中であるぞ!貴様はこの私も侮辱するのか?!」
「ちょっと待ってください、セイヤヌス様!それでは議論の本質が外れております!」
ドルスッス様は流石に義憤に駆られ、お母様を守る為にセイヤヌスの発言へ抵抗されようとした。しかし、威圧的な態度で睨みを効かせるティベリウス皇帝の、『父親』という名の壁を越える事はできない。末妹のリウィッラを抱えるお母様の手は震えていた。
「め、滅相も…ございません…。」
あれ程大らかで躾に厳しいお母様も、そしてその太陽のような性格で、人の架け橋となるドルスッス様でさえも、牛魔の現皇帝、トカゲの親衛隊長官、そして蛇であるシリア属州総督の前において、なす術がないように見えた。
「何事ですか?!」
甲高い女性の声が謁見の間に響き渡る。
「大の大人の、それも男が寄ってたかって一人の女性を陰険に虐めるなんて!」
薄暗い宮殿の中からコツコツと足音を立てて近寄ってくる女性。一際、その身に纏ったストラは輝きと威厳を際立たせ、既に70は越えているであろうに、決して衰える事なく背筋をしっかり伸ばし、大母后として気品をあらゆる所に携えて歩いてくる。
「アウグストゥス様のいらした頃には、考えられない光景です!」
牛のような無関心さを持つのがティベリウス皇帝なら、実母の大母后様は、実年齢にそぐわぬ妖の美しさを秘めた女神アルテミスのようなお人。
「はい…。」
さすがの皇帝も母親の前では肩なし。さっきまでの威圧的な態度から一転して、初老のくせにどこか甘えた態度で影を薄めていった。
「セイヤヌス。貴方が親衛隊長官である事を踏まえた上で、私の可愛い孫であるドルスッスを、引き続きウィプサニアと共に過小評価するのですか?」
「いえ、大母后様…。」
トカゲのセイヤヌスは圧倒されて膝まづいた。大母后様はそのままピソにも目を向けた。
「ピソ、私の夫は常に、どんな時でも私の意見に耳を傾けた方だった。そなたも過信せず、女性の訴えにも真剣に耳を傾けるのべきではないですか?」
「仰せのままに、大母后様…。」
ピソは鋭い眼差しを閉じたまま、ゆっくりと床に膝まづいて答えた。威厳を振り回す大母后様であったが、例え息子であっても皇帝への畏敬の念を忘れていなかった。
「ティベリウス皇帝、一つお聞かせ願いたい。ローマの男子が弱者である女性に、言葉の刃を向ける法律がいつから成立されたのか?」
牛魔皇帝は完全に法律に飼育されている。その上をいく法律を熟知した大母后の発言には、実の息子であり長男である牛魔が抵抗できるすべはなかった。この大母后無くして、現皇帝の帝位は無かったのに等しいのだから。
「いえ…母上。そのような法律は…ございません。」
「はて?では、そなた達が取り出したはその刃、向けるべき相手が違っていたという事なのであろうか?」
「いえ、セイヤヌスは収めるべき言葉の刃を取り出したまでです…。」
しかし、牛魔ティベリウス皇帝は自分から何も発言していない。全てセイヤヌスのせいにしていた。
「そうですか…。」
だが、大母后様は満足していた。ゆっくりと辺りを見渡し、謁見の間にいる全ての者に聞こえるよう、皇帝へ進言をされた。
「では、国を治めるべき皇帝のカエサルとして、家臣の乱心をお治めください。」
これが、初代皇帝アウグストゥス様の奥方であり、現皇帝の母親として現在のローマの実権をしっかりと握る、大母后のアウグスタ称号を持つリウィア様その人であった。
続く