第一章「私」第二話
三歳くらいの頃。
多分、家族みんなでローマから少し離れたアンティウムにいた頃。
ユリアと呼ばれていた私は、いっつも泥だらけだった。普段着である小さなトゥニカを汚しては、道という道を駆け巡り、転んでも膝の傷は舐めて走り続け、木登りだってお兄様達にもこれっぽっちも負けた記憶もなかった。
お母様であるユリア・ウィプサニア・アグリッピナは、活発すぎる私が理解できない様子。いつも泥だらけにしてくるトゥニカを見ては、血相を変えて私を叱りつけていた。今日もお母様に見つからないところで、小鳥の巣にある卵の数を数えて、一人だけで木登りを楽しんでいる。ところがお母様の勘は本当に鋭く、すぐさま見つかってしまった。左手にはまだヨチヨチ歩きの妹ユリア・ドルシッラを連れ、お腹の中には三女のユリア・リウィッラを宿しながら、召使いも使わず直接私に木登りをやめるよう訴えている。
「ユリア、降りてきなさい。そんな先まで登ったら危ないでしょう」
「大丈夫です、お母様。このユリア・アグリッピナには不可能な事はございません!ユリウス家の名誉に恥じぬよう、この大木を制覇してご覧にいれます」
「そんな名誉はいりません!貴方の大きなお尻は、ローマ中のみんなに見られてるのですから、既にユリウス家の不名誉です」
「大丈夫ですって、お母様」
私はゆらゆら揺れる枝の先で、両足で思いっきり何度もジャンプをして無事を示した。
「はぁ!危ないでしょう、ユリア」
お母様の驚く声を聞いた長兄ネロ・カエサルお兄様が、急いでこちらに駆けつけてきた。衣服からはみ出た御守りのブルラを胸元にしまい、お母様から事情を聞いて私の説得をし始める。
「ユリア。危ないから降りておいで」
「大丈夫でーす!ネロお兄様」
私はもっと上の方まで登ってみたくなり、不安定な枝からヒョイっとジャンプしてさらに上の枝まで登った。
「ああ!見てられない」
お母様は顔に手を当てて怖がってる。
実は、内心お母様を驚かせているのが、楽しくてしょうがなかった。ネロお兄様は腰に手を添えて、どの位の高さに私がいるのかを見ているようだ。すると今度は、次男のドルスス・カエサルお兄様が、首を軸にブルラを回しながら、トコトコと歩いてやってきた。案の定、大切な御守りで遊ぶなと、お母様には頭を叩かれ怒られてる。頭をさすりながら、口をポカンと開けたままチラッとこちらを見ると、ネロお兄様から事情を聞きながら、後ろ手をプラプラさせて遊んでる。
「ネロ兄さん、ユリアは自分でちゃんと降りれるよ」
「うーむ、ちょっと危なそうだな。あいつ、あそこまで登った事、今までなかったろ?」
「確かに。この間見つけた鳥の巣よりも上だしね」
「ドルスス、そういえば、この間見つけた時、卵は幾つあった?」
「三個。そのうちの一個は、ガイウスが欲しいって言うからあげちゃった」
「って事は、残り二個しかないのか」
頭を抱えたお母様は二人の逸れた話に飽きれている。
「あんた達、そんな事はいいから、とにかくユリアを助けに行きなさい!」
するとその声に、妹のドルシッラがとうとうぐずりだした。すぐさま長い棒を地面に引きずった、三兄カリグラ兄さん(一応、皆の前ではちゃんとガイウスお兄様と呼んでいた。)がやってきて、後ろからドルシッラひょいっと抱きかかえてはあやし始めた。ギリシャの偉そうな偉人の真似事ばかりするカリグラ兄さんとは、年の近いせいか、なぜか勝気な私としょっちゅう喧嘩してた。
「お母様、ほっときなよ。怪我すんのはあいつの勝手なんだから」
「でも、落ちたら大変でしょう」
「あいつ怪我しないとわかんないよ。それに、あいつのお尻大っきいから、落っこっても弾んでどっかいっちゃうよ。ケッケッケッケ!」
私はムカッ腹が立って、カリグラ兄さんに喧嘩をふっかけた。
「何ですって?!ガイウスお兄様だって、未だに寝小便が治らないくせに、偉そうな事ばかり言わないでよね!」
「な、何だと?!でかいケツ女のくせに木登りとかしやがって!それが兄に対する言葉か?!」
「だったら、登ってきなさいよ!怖がり!」
「うるさいな!オタンコナス!」
「オタンコナスとは何よ!馬面!」
「二人とも!こんなところで喧嘩するの、やめなさい!」
ドルススお兄様を肩車させたネロお兄様は、小鳥の巣のある下辺りまで登らせようとしている。ところがカリグラ兄さんは、抱かえたドルシッラをお母様に渡し、サンダルのソレラをポイポイっと脱ぎ出して、両手両足を猿のように使って勢い良く登ってきた。
「くっそユリアめ!待ってろ!今行ってやるからな!」
「おい、ガイウス。ユリアをあんまり刺激するな」
「大丈夫だよ、ネロ兄さん。あ、ドルスス兄さん、ちょっとどいて。」
「え?」
すると、バランスを崩したドルススお兄様が地面に倒れた。慌てて駆け寄る心配性お母様だが、倒れた勢いで、お兄様の鼻から鼻水が出ていたらしく笑い始めた。それを見たネロお兄様も笑ってる。気になったカリグラ兄さんも、見せて見せてと言わんばかりに、木登りを途中でやめて飽きている。
「たっははは!本当だ。ドルスス兄さんの鼻水、八の字になってる!」
カリグラ兄さんの声を聞いた私は、やっぱりドルススお兄様の鼻水が気になった。けれど、今度は降りるのが怖くなってしまった。
「お、お母様。降りれなくなっちゃった」
「ほら見なさい」
「ええ?!本当か?ユリア」
「本当です、ネロお兄様…」
「おケツから、降りればいいじゃん」
「ガイウス、お前余計な事言うな。ドルシッラをあやしてろ。」
カリグラ兄さんは、鼻水を拭いてるドルススお兄様に怒られてる。再び、ネロお兄様とドルススお兄様が、私を救出するために登ろうとしている。でもどうしよう?それまで待っていられない。さっきまでいた下の枝までさえも、足が全然届かない状態。伸ばせば伸ばそうとするほど怖くなり、ついには右足からソレラが脱げてしまった。
初めて、かなり高い所まで登った自分に、気が付いて震えていた。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。