第十章「亀裂」第百九十六話
侍医エウデモスは笑いを堪えられなかった。全てがセイヤヌスの言う通りだったからだ。これほど面白可笑しい事は今までにあっただろうか?
「どうだ?エウデモス、全てはお前の好きにできる事なんだ。」
「ええ、ええ、ひっひっひ。」
目隠しをされ、あるがままの姿にさせられたドルスッスの妻であるリウィッラは、まるで雪を溶かすように普段の機嫌の悪さを汗や喘ぎと共に流していく。
「頬張れ、吸い付くせ!そして今まで貴様が蓄積していった欲情をぶちまけるんだ。」
「当然でっさ!ひっひっひっ!」
「私は私はもう一人の宦官奴隷リュグドゥスの様子を見てくる。」
セイヤヌスはリウィッラの寝室を離れ、親衛隊の部下と共に黒外衣を羽織り表へ出て行く。するとちょうど向こう側からゆっくりと自宅のドムスへ帰ろうとしているドルスッスの姿を見掛けた。
『教祖?!』
『マズイ!ドルスッスではないか?!』
『何でこんな早い時に帰宅するんだ?!』
『エウデモスの奴を何とかしなければ!』
『間に合わん!放っておけ!』
『ダメです教祖!奴の口から我らの計画が漏れたりしたら…。』
『クソ!』
『教祖はとにかく姿を隠してお帰りください。』
『後は我々が!』
『うむ、頼む。』
蜘蛛の子を散らすように、彼らはドルスッスに見つからないように姿をくらますと、部下達のリウィッラとエウデモスの居る寝室へ急いで向かった。
「リウィッラ~。俺がど~れほどの間、お前を堪能する日を心待ちにしていたのか~分かるぅかあああ?」
エウデモスは怒りだけでなく喜びを体現する時も、鷲鼻の先にある無数のイボを潰す癖がある。
「綺麗で美しく、そして妖しく豊満で艶っぽい肉体。それらが全て私の物に…。」
潰した先から垂れる汁を、いやらしくへその周りに垂らすと、全裸の肉体は波紋のように感覚を伝え打ってくねらせ始める。そしてエウデモスは歯茎を剥き出しに笑い、リウィッラの全裸という孤島へと、枯れた枝木のような指先を伸ばしている。
「やっと、やっと…。」
「?!」
だが弾かれた。
黒外衣を羽織ったセイヤヌスの部下達は、エウデモスの首元や両手首を抑え、壁に思いっきり投げ飛ばした。
『今日はここまでだエウデモス。ドルスッスが既にこちらに向かっている。』
「な、何?!旦那様が?!」
『このままお前が戯れを続ければ、セイヤヌス様の計画が台無しになる。』
『ドルスッスに今の惨状を見られれば、お前自身が不利になるのも必至。即座に普段の状態へ戻すのだ。』
「ぬっっぐ!!」
あと一歩、前に進めればリウィッラの豊満な胸を頬張る事ができるというのに。間の悪さはいつだって同じだ。失う時には常に邪魔だてが入ってくる。いやだ!冗談じゃない!わしは餌を目の前にぶら下げられた飼い犬のままで終わってたまるか!
「嫌だ!手を離せ!貴様らが旦那様の帰りを止めて来い!」
『何だと?!
「セイヤヌスの計画がなんだ!不利なのは貴様らの方ではないか!」
黒外衣を羽織った連中は、手首に力を入れてエウデモスの息の根を止めようとしたが、エウデモスは不敵に笑うだけであった。
「わ、わしを殺したところで、そ、それでもセイヤヌスの毒殺計画は…うっぐ!ドルスッス旦那様に漏れるぞ!」
『何だと!?』
「旦那様に渡してる処方薬は、セイヤヌスがリウィッラから旦那様へ飲まそうと手渡したエトルリアの毒薬なのだ。わしが死ねばリウィッラもいずれバレる、そうなればお前達もこのままでは…ウッガ!!」
だが、有無を言わせなかった。
所詮は愚か者の浅知恵であるのは明白。瞬時に腹部へ拳を二発ほど流しこまれ、エウデモスの意識を吹き飛ばされた。醜い人間達はその劣等感故に勘違いをする動物。彼らを人間として見ていない親衛隊達の方が何十枚も上手だったのだ。うなだれたエウデモスは外の廊下に放り捨てられ、薬漬けになっているリウィッラの頬を叩き、目隠しされた彼女の自由な時間に緊張感を解き放つ親衛隊は、ドルスッスに目撃されることなく全ての証拠を隠滅した。
「お、お帰りなさい。」
「ただいま、どうした?」
「いいえ、今日はお帰りがとてもお早いのですね?」
「ああ、午前中はクラウディウスさんの所へ行ってきて、その帰りにウィプサニアの所に寄ってきたよ。」
「え!?ウ、ウィプサニアですって?」
今まで気まずい雰囲気であったリウィッラ叔母様の表情は、一挙に険しい表情へと変わっていく。まるでありもしない浮気を疑い、自分の事はしっかり神棚に上げては隠祈る、そんな、愚かで浅はかな女性を演じるように…。
続く