第十章「亀裂」第百九十四話
渦中にある人物。
ティベリウス皇帝の長男ドルスッス叔父様。
「やぁ!ユリアちゃん元気か?」
あんなに陽気で穏やかで、あんなに正義感があって、優しさが滲み出る人は誰一人とおらず、父親でありローマの英雄でもあったゲルマニクスお父様の面影さえも敢えて背負い、ご自分よりも人の優しさを常に大事にされる方だった。
「おいおいゲルマニクス。まぁそんなに怒るなよ。」
そんな爽やかな性格が、お父様とすごく気が合って、ドルスッス叔父様とゲルマニクスお父様のお二方は、次の明るく煌びやかなローマ国家の明日を担う柱として注目されていた。人々は神君カエサルとアントニウス、いや初代皇帝アウグストゥス様と軍神アグリッパ様のような神々しい関係を浮かべているようだった。
「なぜ、お前が、俺よりも…先に、逝かねばならないんだ…?答えて…くれよ。我が友、ゲルマニクス…よ。」
けれど、お父様がこの世を去ってから全てが一転していく。ピソによる毒殺が世間で叫ばれた時、叔父様の立場は皇帝の実子でありピソの愛弟子という立場であったにで、世間の批判を受けてもおかしくなかった。だが叔父様は人の情けに生きて、母ウィプサニアの悲痛な思いを胸にピソ弾圧の為に裁判へ立ち向かった。
「彼らの勢いに後押しされて、我を見失ってはピソとの裁判の本質が掴めなくなる。」
人々は圧倒された。
その優雅な佇まいといちいち最もなピソへの糾弾、そして適切で冷静な判断は、親友を失われてもなお、その信念さえも受け継いだようなお姿だった。その一方で、ご自分の受け継ぐ血統への配慮も忘れてはいなかった。
「時には友として、時には兄弟として、そして時には競い合う軍人として、共に憧れたアレキサンダー大王の背中を追いかけるかのように、僕らは共に同じ時代を生きてきた…。」
祖母のアントニア様がゲルマニクスお父様を喪ったショックで倒れ、大母后リウィア様と皇帝ティベリウス様がお父様の国葬不参加を表明された時、大母后リウィア様を中心とした皇族一派はローマ市民からの非難と罵倒を浴び、内戦さえも辞さない状況だった。そこへ颯爽と事態の収集をされたのがドルスッス叔父様。皇族派の代表者として国葬に参加され、もちろん私達家族への配慮も忘れない名演説を残してくださったのだ。
「安心しろ、ゲルマニクス。僕が我が子以上に遺されたお前の子供達を必ず守る。だから、そっちの空がここと同じように蒼く澄み切っているのなら、オリュンポスの神々と共に、僕らをいつまでも見守ってくれ…。」
そのドルスッス様が我が身を削って、どうにかユリウス氏族とクラウディウス氏族の架け橋に成ろうとしている時にである。母ウィプサニアはクラウディウス氏族へ対抗すべくドルスッス叔父様を味方へと誘い込み、ドルスッス叔父様の妻であるリウィッラ叔母様は、セイヤヌスの野望に巻き込まれて夫婦の愛を裏切ってしまう。
「大丈夫ですか?ドルスッス様。」
「ええ、クラウディウスさん。」
「顔色もだいぶ以前よりも良くなっているようには思えませんが…。」
「僕のことは良いんだよ、それよりもセイヤヌスの動向さ。あの密教トゥクルカから何か尻尾を掴むことが出来ました?」
「いいえ、残念ながら。我が奴隷のナルキッススにその後色々な宗教を監視させてるんですがね。足取りは全く掴めません。ただ、調べていきますとローマに帰化する前のエトルリア人には、高度の技術を用いて医療に通じていた人物がいたのは確かです。」
「医療に?」
「それもあまり評判の宜しくない、本人にさえ意識させない形で病を施す方法から、精神的な分析を含めた治療法まで。その人物は、医学界の巨匠テミソンにも影響を与えたとか…。」
「テミソン?」
ドルスッス叔父様は、クラウディウス叔父様の発した言葉を簡単に流す事は出来なかった。
「どこかで聞いた名前だな。」
「ドルスッス様はご存知で?確か、シリアにあるラオディケイア出身らしく、恐水病を発見した事により、信奉者の数もかなり増えたらしいですよ。」
「何処か自分の身の回りで聞いたような気がするんだが、うーん思い出せない。」
「残念です。ひょっとしたら手掛かりになれたかもしれません。」
二、三度咳込むドルスッス叔父様は、クラウディウス叔父様に薦められた葡萄酒を喉越しへ通らせると、舌鼓をしながらマジマジとグラスの葡萄酒を眺めている。
「うん?これはまさか?」
「そうです、大母后リウィア様ご所望のピッツィノ葡萄酒ですよ。」
「ああ!祖母の葡萄酒ですか?!」
「ええ。うちの母アントニアが、私の引き摺る脚を気遣って幼い頃から飲ますんですよ。」
「私も幼い頃に飲まされましたよ。」
「異氏族とはいえ、私達は同じものを食べて、飲んで育ってきたわけですね。それなのに、リウィッラ姉さんとウィプサニア義姉さんは…。」
二人の間から穏やかな時間を奪い、沈黙という名の牢獄へ押し込めるほどの魔力を帯びた名前であった。
「ところで、頼んでおいた例の物はどの位進みました?」
「既に先ほど作業を終えたばかりですよ。」
続く