第十章「亀裂」第百九十話
いつ何時でも、大母后リウィア様は国母としての自覚は失ってはいない。例え実の子である皇帝ティベリウスが国母を名乗ることに苦言を申し出たとしても…。
一方、一喝された母ウィプサニアは、国母という強大な権力と存在感に己の力の無さと悔しさが入り混じった心境にいた。そして、女である事で損な時があるとすれば、それは自分で抱え切れない不安と憤りを投げつけられた時。
そう、どんなに神君カエサルの考えで振舞ったところで覚悟の無い女はただの女。感情的で現実的にしか生きられない。
「母さん、何故ですか?!」
「我が家族に二人も要らないと言ってるのよ。」
「な、何故ですか?!今年は、僕にとって!大切な大切な成人式を迎える年ですよ!」
「これは高度な政治的判断が必要になる事なの。今、ユリウス家の人間が更なる注目を浴びれば、あの女狐は必ず貴方の長男ネロを叩きにやってくるはず。」
「そんなの嘘だ!だって僕にとっては、大母后リウィア様は曽祖母ではないですか!?」
「だからこそなの!油断したら貴方の命も危なくなるの!」
「誰がそんなこと信じられるもんか!今から聞いてきます!」
部屋に鳴り響いた嘆きの正体は、次兄ドルススによる落胆と憤りの言葉だった。
「ドルスス、待ちなさい!」
「嫌です!僕は納得できません!ネロ兄さんは13歳で成人式を迎えたのに、何故ですか?!僕は来年で17歳を迎えるんですよ!」
「黙りなさい!!」
母ウィプサニアによる一喝が、ドルスス兄さんの全身を強張らせ、そして、怯えさせてしまっている。
「ドルスス、貴方はもう16歳じゃない。なぜ自重する事を覚えないのですか?!」
「自重よりも成人式が、僕にとっては大切なんです!」
パチン!
母の冷たく細長い指先が、ドルスス兄さんの頬を容赦なく叩いた。
「ワガママで我慢できない男が、成人式を経てローマ市民に成れると思ったら大間違いよ!」
「嫌だ!!」
けれどドルスス兄さんは反抗する。
ネロお兄様と比べられる立場に、既に飽き飽きしていたのかも。兄さんは自分の腕力で訴えてきた。割れたグラスを右手で震わせている。
「ああああぁドルスス!!!おやめなさい!おろしなさい!」
「嫌だ!嫌だ!嫌だ!いい加減にしてくれ!俺はネロ兄さんみたいに、母さんの傀儡になるつもりなんか無いんだ!」
「く、傀儡?!」
「そうさ!自分の考えさえも、母さんと同じようになっちゃって!昔の発明好きだった兄さんのお御影なんか、どこにも無いじゃないか!」
そうだ。
ネロ兄さんとドルスス兄さんは、私が覚えている限りいっつも仲良しで何かを作ってたっけ。
「母さんはまだ気が付かないのか?!ゲルマニクス父さんが死んでから、何もかもが悪い方へ変わって行ったじゃないか!?母さんはそれでも本当にゲルマニクス父さんを心から愛してるのかよ!!?」
ドルスス兄さんの言葉が、決して母を傷つけようとしていたわけじゃないのだけれど、昔の優しかった母に戻って欲しくて、きっと、私達兄妹の代弁をしてくれただけだったのかもしれないけど、だが、母は欠けたグラスの鋭い先を突き付けられて、己の覚悟の無さを自覚したんだと思う。
「そうかい、ドルスス!あんたも私の味方をしてくれないんだね?」
「そ、そうじゃないんだよ!母さん!」
「あんたも私を悪者にするんだね?!」
「違う違う!違うったら!!」
「こんな男の子を産んだあたしが馬鹿だったのよ!やるならやりなさい!」
今でも瞼を閉じても刻まれている姿。
それは、母が仁王立ちして恐ろしい形相で、お腹を指差して刺すように挑発をして叫んでいる姿だった。
続く