第十章「亀裂」第百八十八話
侍医のエウデモスは耳を疑った。
「あの、一体何故にそのような事を。」
だが、忌々しいセイヤヌスは、やけに慣れなれしく肩を組んできては、ボソボソと耳元で呟いてくる。
「己の欲望を隠すことはないだろう?エウデモス。理由が欲しくば、今までいくてだって、侍医のお前ならいかようにリウィッラを弄ぶ事だってできた筈なのに、あの女はお前に指一本触れさせやしないんだろう?」
リウィッラ叔母様は昔から醜い物が嫌いだった。唯一エウデモスが侍医になれたのは、リウィッラ様の旦那様であるドルスッス様の恩赦があったから。そうでなければ、いくら優しい叔母様とて見た目も性格も醜いエウデモスをそばに置いておくわけがない。
「ううう…。」
「ジッと密かに思い続けた所へ、このエトルリア人が横取りしたもんだから、お前もこの俺が憎くて仕方ないんだろう?」
「いいえ!そんな事はありません!」
「いいから無理をするな。だが、お前の本来憎むべき相手は、リウィッラを横取りしたこの俺でも、醜いお前を相手にしないリウィッラでもなかろう?」
「?」
「そもそものお前の不幸の始まりはなんだ?家庭を奪われたお前に、恩赦という名の階級社会に対する、卑屈な悪感情をお前自身に芽生えさせた、リウィッラの夫ではないか?」
「だ、旦那様?!ドルスッス旦那様が?!そんなことはありません!旦那様は私のためを思って…。」
「貴様の為を思ってだと?では、何故ドルスッスは、その権力を行使して家族を取り戻すことしてくれないのだ?」
「そ、それは…。」
「お前だって、優しい家族が側にいれば、リウィッラのような雌豚に欲情することもなかったはずだ。」
エウデモスはさすがに堪えた。
今の人生は虐げられているという恨み辛みが、どうしても払拭する事ができず、一つも解消されない欲望ばかりが蓄積されていったからだ。
「お前を助けたい、そして私に協力して欲しい。」
「え?!」
「お前の人生を見えない所で奪い去った人物がいなくなるために、お前はたった一つ私の教えた言葉を答えればいいんだ。」
「何て、言葉をですか?」
「恐水病だとな…。」
恐水病は、酷い症状だと死に至る病。
セイヤヌスのにやけた顔は、ある事を察している。つまりドルスッスの殺害を、病と見せ掛ける事。さすがのエウデモスも察した。
「む、無理です!そんなことは!」
「では、お前はリウィッラを抱く事もなく、家族さえも取り戻すことなく、一生を終えるというのか?」
「しかし…。ドルスッス旦那様を殺すなどと!」
「おいおい、何を物騒な事を言ってるんだ?ただ、誰かに聞かれたら、そう答えればいいのだ。お前は答えるだけでいいんだ。直接お前が下すわけではないのだからな。」
いいや!
ダメだ。このエトルリア人を信用してはいけない。私は今までそうやってこいつらに騙されてきたのだから。
「勿論、お前は私を信用していないのだろう?」
「…。」
「リウィッラと不義を重ねている人間など、信じられないのが当たり前だ。明日、いつも通り私はドムスへやってくる。その時、リウィッラには目隠しをさせるつもりだ。」
「め、目隠しを?!」
「そうすれば、あの媚薬も手伝って、私の代わりに視界を奪われたリウィッラを、お前は好きなようにできる。それで私を信用して欲しい。それでも信用できなければ、何度でも抱かせてやる。お前の気が済むまでいくらでもな!」
ほ、本当なのか?
いいや、信じてはいけない。だが、断ればこの男が何をしでかすかも分からない。慎重に応えなければ…。
「明日、お待ちしております。」
エウデモスはニヤけて応える。
その顔を見たセイヤヌスも、エウデモスが求めている意思を確認でき、ニヤけて頷いた。こうして、セイヤヌスはまた一人、ドルスッス叔父様を毒殺するべく計画を進めていった。
続く