第十章「亀裂」第百八十六話
「ウィプサニア!好き勝手に口を開くにもほどがあります!今すぐ訂正なさい!」
「嫌です!アントニアお義母様!今日は黙りません!」
「無礼だと告げているのがわからないのですか?!貴女が今立っているこの場所は、貴女の目の前に座ってらっしゃる大母后リウィア様の…。」
「アウグストゥス様と仰るなら!この場所は私にとっては祖父の神殿です!アントニアお義母様だって、アウグストゥス様のお姉様であるオクタヴィア様の血筋を受け継いでるではありませんか?!」
「その事は今は関係無いでしょ?!」
「いいえ、多いに関係あります!リウィア様が平民どころか、全ての人から何と呼ばれているのかご存知ですか?!」
大母后リウィア様は、少し眉毛をクイっとあげて、大理石になったように奥歯を噛み締めながら答える。
「ウィプサニア、私が女狐とでも…?」
「ええ!何でもかんでも寝とる『女狐』ですよ!今この場で、最もこの神殿で適さない場所に無礼な人間がいるとしたら、それは現牛魔皇帝からも『国家の母』アウグスタを名乗ることを禁じられた、このカエサルの血も引かない『女狐母后』しかありません!」
母ウィプサニアの大母后リウィア様に対する礼節を欠いた無礼で不躾な態度には、さすがのリウィア様も許容の範囲を超えていた。だが、それでも感情的にならず、一つ一つ言葉を選んで確かめるように発した。
「ウィプサニア、確かに貴女が指摘するように、元々私達はカエサル家の血を引かないクラウディウス氏族よ。けれどもいつの時代でも、国家を支えるとなれば、輝かしい部分だけでは当然無理な事も分かるでしょう?時に英雄であった神君カエサルでさえ、その人物に権力が集中すれば、容赦無く暗殺してしまうほど、このローマ国家には魔物が住んでいるのよ。だからこそ、国家には常に舵取りと均等なバランス感覚が必要なの。」
「それが牛魔ティベリウス皇帝が帝位に居座る理由と、どう関係あるのですか?!」
「言葉を慎みなさい!ウィプサニア。大母后リウィア様の実子に何てことを!」
「いいわよ、アントニア。今日は何とでも言わせなさい。」
半ば諦め気味の大母后リウィア様は、母の為を思っての言動だったのだが、対局側にいる母にとっては誇りを傷つけられた想いだったのだろうか、怒りと憎しみという紅蓮の炎に身を投じ、更なる侮辱的な言葉を吐き出してしまった。
「何とでもですって?!何たる傲慢!何たる非妥協的!貴女は私が言っていることを理解されているのか?!」
「理解?!人に理解を求めるならば、
礼節を欠かさず敬う言葉を選んだらどうなの?!さっきから好き勝手な事ばかり好きなように並べて!あんた何様のつもりかい?!仮にもあんたは我が子ティベリウスの養子なのよ!それを忘れてはいないでしょうね?!」
「ならば言わせてもらいましょう!その牛魔ティベリウスはユリウス氏族の養子ではないですか!」
「いい加減になさい、ウィプサニア!」
「アントニアお義母様は本当に黙ってて!こうやってクラウディウス氏族の連中は、共和政支持派の元老院を抱きかかえて神君カエサルを暗殺したのですから!」
行き過ぎた言動の後には、決まって静寂と沈黙と気まずさという緊張感が生み出されていく。母は引けぬ所まで行ってしまったのである。
「アントニア、ウィプサニアを下がらせなさい。」
「はい。」
「いいえ!まだ終わってなんか…」
「いい加減に黙りなさい!!!」
だが、腹部の奥深くから発せられた大母后リウィア様の重厚な叱責は、その場にいた全ての人間を圧倒させた。
「血筋を傘に楯突くクロアカネズミの分際で!何をヌケヌケと気取っている!これ以上の無礼は!例えアントニアの息子の寡婦だとしても!我が愛する夫アウグストゥスの孫だとしても!決して許しはせぬ!」
「…。」
「よいか?!ウィプサニア!もしこの宮殿で一言でも!今後一切!クラウディウス氏族の方々を侮辱することあらば!お前を裁判のバシリカに掛け!全力をもって!お前を国家反逆罪へ問われるようしてやるから心しなさい!」
母ウィプサニアは、ご自分をまさにアッティカの王ペリパースと勘違いされたに違いない。王ペリパースはアポロ様を深く信仰して善政を行ない、その治世が余りにも偉大であったため、人々は王ペリパースをユピテル様と崇めた為に、ユピテル様の怒りに触れ、雷を撃って王ペリパースを滅ぼそうとした。まさに、きっとそこにいた誰もが、今まで見たことも無い大母后リウィア様の激しい形相こそ、ユピテル様の怒りそのものと言えたのかもしれない。当然ユピテル様と同等とも言える大母后リウィア様の逆鱗に触れた母ウィプサニアは、己の命を差し出さなければならぬほど、顔面蒼白にあからさまに震えて怯えるしかなかった。
「己の分と器をわきまえよ、ウィプサニア!今後のお前の善行次第では、今回の度を超えたお前の礼節を欠いた無礼は、私の胸にしまっておこう。」
結局、母ウィプサニアと大母后リウィア様との深い溝は、互いに譲歩すること無く、このまま互いの生涯を終えるまで、平行線を辿る運命であった。
続く