第十章「亀裂」第百八十話
「ウィプサニアは、ピソの裁判だけでは飽き足らず、まさか、ゲルマニクスの国葬に出席しなかった事を未だに恨んでるのかい?」
「恨むなんて、そんな可愛いものではありませんよ。今やセイヤヌスに対立する求心力として、多くの共和政支持派から賛同を得ていますが、コッケイウス家のネルウァ様やアシニウス様とも強固な関係を築き始めてるのですから…。」
「ネルウァやアシニウスもかい?!」
「ええ。」
アシニウス様は指導的市民と呼ばれる有力元老院議員の一人で、当時から数えて三十年前には執政官のコンスルにつき、さらに属州総督であるプロコンスルとしてアシア属州に赴いた方。ただ、それだけならば問題無かったのかもしれない。
問題となったのは、アシニウス様ご自身が、ティベリウス皇帝にとって誰よりも愛された最初の奥方の再婚相手であり、そのことが少なからずアシニウス様とティベリウス皇帝の互いに遺恨をもたらしていた。さらに裕福ではあるが上流氏族ではない、コッケイウス氏族に属するネルウァ様が、母ウィプサニアの後ろ盾になっているアシニウス様と結託されているのだ。
ネルウァ様は、言うなれば皇族派でも共和政支持派でもない有力者だが、莫大な財産を築き上げた手腕と、人柄の良さは現皇帝ティベリウス様にも一目信頼を寄せられてる。
「参ったねアントニア。彼ら二人は単なる共和政支持派では括れないのよ。どうしてこうなる前に、ウィプサニアを近づけさせないようにしなかったの?」
「申し訳ございません、お義母さん。本当に私の不徳の致すところでした。寡婦としてのウィプサニアの心情を考慮すると、どうしても強く言い出せず、つい…。」
「見て見ぬ振りだったわけね?」
「はい。」
「全く…。」
「それで、次はあんたの実の長女リウィッラだけど、またまた葡萄酒飲み過ぎたのかい?」
アントニア様は目を床に下ろして、未熟な自分の恥を見つめるように話し出した。
「あの娘は、きっと心の病なんです。」
「心の…病?」
「ドルスッス様の実母様の国葬以来、あの娘はドルスッス様とウィプサニアの関係を疑い続けており、二人が対面すれば一触即発にみなりかねないほどに…。」
「まったく、醜い女の嫉妬じゃないの、放っておきなさいよ。」
「いいえ、女の嫉妬だけなら私もここまで頭を悩ますこともありません。まるで何があったのか知らないけど、あの娘、ある時期からピタリと表へ出なくなって…。あの娘が前夫を亡くした時でさえ、少なからずサートゥルナーリア祭にはちゃんと顔を出していたのに、さらにあの娘の奴隷の話では、度々、親衛隊の上官らしき人物が出入りしているのを見た者まで…。」
「親衛隊…上官?」
「ええ。」
大母后リウィア様は、頬に右手の掌を乗せて推敲されている。そして、鋭い顔つきでアントニアを見つめた。
「まさか、セイヤヌスじゃないだろうね?」
「セ、セイヤヌスって、あのジュリアの父親が?!」
「だから私は反対したのよ、アントニア。クラウディウスの息子ダルサッスが亡くなった時に、婚約していたジュリアとは縁を切るべきだったのよ。いくらジュリアがウェスタの巫女達の手伝いをする事で、亡き婚約者に貞操を守る為に親から勘当されたとしても、セイヤヌスはジュリアにとって親でしょう?」
「はい…。」
「それに忘れたのかい?ジュリアをダルサッスの婚約者に勧めてきたのは、お前の長女リウィッラじゃないか。」
「ああっ!」
そして、事態がさらに最悪な方向へと及ばないように、ある決断を下させされた。
「私が直接ウィプサニアとリウィッラと話しましょう。」
「お義母さんが、直々にですか?」
「仮にもゲルマニクスを我が息子ティベリウスが養子にした時点で、クラウディウス氏族の家族。そして息子ティベリウスの長男と結婚したリウィッラも家族。氏族同士の混乱はローマ国家にとっても、決して得策では無いでしょう?」
「そうですね。」
「それに今、ここでウィプサニアとリウィッラの誤解を解いてやらないと、隣のドムスにいるこれからのローマ国家を担う彼らが可哀想よ。」
「孫のドルススやアグリッピナです?」
「それだけじゃないわ、アントニア。多くのまだ生まれぬ子供たちも含めて、私達やあんた達の世代は、彼らの安定した未来を不安にさせないための責任があるの。」
アントニア様は、大母后リウィア様の壮大な考えに圧倒されていた。
続く