第十章「亀裂」第百七十九話
初代皇帝アウグストゥス様が寝床にしていたドムス。
その大きさはアウグストゥス様の宮殿に比べたら、非常に質素で小さな作り。豪華なアトリウムや天窓、雨水を貯めるインプルウィウムも質素で、真紅色を貴重としたコンクリート壁が、ローマ国家の尊厳者という名誉を与えられた威厳と品格を兼ね揃え、大小合わせた15の部屋があり、程よくバランスの取れた配置になっている。
むしろ大人になってから考えれば、敢えてご自分の存在を謙る事で、元老院への配慮と厳粛した威厳を与えられ、正にローマの尊厳者足り得るアウグストゥスの称号に相応しい、美学に溢れた作りなのかもしれない。
まぁ子供心の私達からしてみれば、"これが、あのアウグストゥス様のドムス?"って感じになるのは当然でしょうけどね…。
「あら?アグリッピナ。」
何と、ドムスの中からひょいっと顔を出してきたのは、大母后リウィア様だった。
「ああ、大母后リウィア様!お久しぶりです。」
「やっぱりアグリッピナじゃない。貴女、随分大きくなりましたね?」
「ありがとうございます。最後に大母后リウィア様にお会いしたのは、ウェスタの神殿近くで起こった火事の時でした。」
「まぁ、そんなに!今は幾つ?」
「今年で八歳になります。」
「もうそんなになるのねぇ。随分とお姉さんぽい顔つきになって、妹達のドルシッラやリウィッラは元気?」
「はい、とても元気です。」
「それと、リヴィアとは仲良くやってる?」
「ええ、まぁ、あははは。」
「ダメよ、いつまでも意地を張ってちゃ。もうリヴィアは貴女の義理のお姉さんなんだから。」
確かにそうなのよね。
リヴィアは長男ネロお兄様のお嫁さん。でも、なんか憎たらしくて仲良くなれない。
「ドルスス、元気でしたか?」
「はい、大母后リウィア様。」
「貴方は今年こそ成人式を迎えられるよう、精を尽くして頑張らないとね。」
「はい、兄にも劣らぬよう頑張ります。」
「良い心掛けです。でもね、こういう大切な事は競い合うことでは無い事なのだから、しっかりと自分の身になる事を覚えなさい。」
「はい!」
すると、アントニア様はゆっくりやってきて大母后リウィア様へ抱擁をした。二、三ばかしお二人がお話になると、本当に周りが輝くような雰囲気になってくる。これはきっと、母ウィプサニアの事で私達を心配かけない配慮だと思う。
「ドルスス、アグリッピナ。あんた達は暫くあたしの旦那の家の中でも見てらっしゃい。」
「?」
「そう、おばあちゃん達はね、大事なお話があるの。」
そうアントニア様が言うと、私達にウインクをしてスタスタと隣のリウィア様のドムスへ入られてしまった。そこで私達兄妹は、ニコニコしながらアウグストゥス様のドムスへ入ってみた。
「うわぁ、とっても上品!」
「凄いな、アグリッピナ。」
「うん!」
フラスコで描かれた壁画は、とってもローマらしい雰囲気の円柱が描かれたり、羽をつけた美しい女性の画や、繊細さを表したような上品な模様が繰り返し描かれており、紅葉したような大理石模様などは、失礼を敢えて言わせてもらえば、男性の家とは思えないほど優美で繊細だった。
「それにしてもアウグストゥス様って、ご自分の美学を持ったお方なんですね?ドルスス兄さん。」
「ああ。それにさっきから気付いたか?アグリッピナ。心地いい風がちゃんと伝わってくるのを。」
「本当だ!凄い。どうなってるんだろう?」
気分が紅葉している私達が尊厳者のご自宅を巡っている頃、アントニア様と大母后リウィア様は、やはり母ウィプサニアの処遇について話されていたみたい。
「アントニア…。」
「大母后リウィア様…。」
「いいわよ、もうその名前は。いつも通りお義母さんで。」
「どうしたのです?お義母さんは仮にも神格化されたアウグストゥス様の『アウグスタ』でしょう?」
大母后リウィア様は少し疲れた表情で両肩をあげ、溜め息を深くついている。
「ふぅ…。ウェスタ神殿側で起きた火事以来ね、息子ティベリウスは私をあからさまに邪魔者扱いするのよ。」
「ええ?!どうして?」
「あの子のことを思って、ローマ市民権のある実力者を陪審員団へ入れるように言ったのが始まり。」
「はぁ…。」
「ピソ裁判の一件もあって、私は公正な裁判が行われるようにと、皇族派でも共和政支持派でもない、中立な陪審員団を入れるべきだって主張したの。そしたらあの子は『母さんがいつまで私を子供扱いするのなら、この主張は母からの強要でしたと一筆書き足さなければ認めません。』なんて傲慢な態度を取ったのよ。」
「まぁ!」
「私もカチンと頭にきたから『あんたがそんな態度を取るなら、あたしの旦那が貴方の事を書いた書物を読んでやるわ!』なんて感情的に読んじゃったら、まぁ随分と狼狽した表情を見せ出したの。」
「お義母さんにしたら随分と珍しい事をされたんですね。」
「でも、失敗よ。あの子は自分を神格化するような事を一切やめるように元老院へ懇願することで、私が今までのように政治へ介入する事ができないよう、まんまと上手く牽制しちゃったの。」
再び大母后リウィア様は深い溜め息をついた。
「どうしてローマの男共は、根が甘えん坊の癖に格好つけたがるのかしら?」
「それはお義母さんが生んだ、私の亡き夫も一緒でしたよ。」
「あら?あの子は甘えん坊でも素直だったじゃない。でも長男のティベリウスは手の掛からない子だったけど、何を考えているのか、今でも全く分からないんだから。」
「お義母さん、親は死ぬまで子供にとって親でしょう?でも、どこまで親であるべきなのかしら?」
「ウィプサニアとゲルマニクスの妹リウィッラのことかい?」
「ええ。」
母と叔母様の事は、祖母と曽祖母にとって頭を抱える、最も深刻な問題になっていた。
続く