第九章「初恋」第百七十七話
まるで夢のようだった7日間のサートゥルナーリア祭もあっという間に終わり、後は年初めに年神ヤーヌス様を迎えるだけ。出入り口と扉の神だけあって、前後二つの顔を持つのがヤーヌス様の特徴で、私は幼い頃から人の二面性を表しているようで好きだった。
「おはよう、アグリッピナ。」
「おはよう、ドルスス兄さん。」
「なんだ?目真っ赤じゃないか。どうしたんだ。」
「寝てなかったの、ため息ばっかり出ちゃって。」
「何で?」
そりゃあパッラスとキスしたから、
何て言えない。はぁ、どんな顔してパッラスに会えば良いんだろう?参ったな。
「おはようございます、アグリッピナ様。」
「ヒッ?!」
アラトス王子!
「お、おはよう、アラトス王子。」
「昨日はグッスリ良く寝れましたか?」
「え、ええ。アラトス王子は?」
「予は煌びやかなキャンドルに彩られたローマの夜に、胸がワクワクして眠ることができませんでした。」
「そ、そう?」
まさか、パッラスとのキスを見られてないわよね?
「毎年あれ程のキャンドルが灯されるのでしょうか?」
私はあたふたしていると、ドルスス兄さんが肩をポンっと叩いて代わりに説明してくれた。
「そうですよ。ただ、火事の多いのは事実なので、いずれ取りやめになってしまう可能性が高いですね。」
「それは残念ですね。」
「はい…。」
するとアラトス王子は私の右手をそっと優しく取って、私に微笑みを浮かべながら素敵な言葉で私を包んでくれた。
「アグリッピナ様、もし、来年のサートゥルナーリア祭でもまた、このようなローマの夜に無数のキャンドルが、煌びやかに灯されるのなら、最後の夜は是非とも、私とご一緒できませんでしょうか?」
彼は敢えて謙った言い方で懇願してきたの。私の指先に彼の指先が触れているだけで幸せだというのに。ああ、もしアラトス王子ともキスができたどんな感じでなのだろう?!
「はい、喜んで…。」
ふわふわとした暖かさが心を包み、アラトス王子に笑顔で答えていたら、横目にチラッとみえたのはパッラス。彼は全くこっちを見ることなく、真っ赤になった指先を濡らして働いてる。
「アグリッピナ様、私は再びこれから祖国へ帰らねばなりません。」
「え?!今日なのですか?!」
「はい、ですが、私は貴方を心から思い、手紙でこの気持ちを綴る所存であります。そしていつの日か、貴方に私が育った地中海に広がる海原を捧げたい」
「アラトス王子…。」
でも、私は決して彼の祖国に足を踏み入れる事は生涯なかった。当時から五十一年前、つまり初代皇帝アウグストゥス様がアクティウムの海戦で勝利した後、アカエアとマケドニアと分別されたことによって、ローマ寄りだったアラトス王子の小国は、ローマに逆恨みを持った部族の逆恨みにあい、彼は王になることもなくこの世を去ってしまう。生きてた王子の素敵な笑顔を見たのは、この時が最後だった。
「アグリッピナ、良かったな。」
「う、うん。」
でも幼かった私は自分の気持ちに素直になれず、また黙々と仕事をしているパッラスの姿が気になってしまい、王子との名残惜しい時間を無駄にしてしまった。だから私は神々なんて信じないの。心が求めるもの、体が求めるものは、どうしてこんなにも差があるのだろうか。もちろん幼かったから、その差すら分かってもいなかったけど。でも、パッラスも好きでアラトス王子も好きな私の心は二つに切り裂かれそうだったから。
「では、そろそろ王子行きましょう。」
「はい、セリウス、クッルス。」
本当に本当に今でも後悔してるのよ。
多分、この時が一番素直で正直な時だったからこそ、私が恥ずかしさを優先した自分を恥じているの。三度もローマ人の妻となり、そのうちの一人は叔父であり皇帝、そして我が息子を今こうやって皇帝に帝位させた母后となっているのに、やり直せない過去があるだなんて。だから、唯一大好きな年神ヤーヌス様が年初めに私に語りかけてくれる気がする。
"アグリッピナよ、お前がいくつになろうとも、今年こそは良い年であることを、心から深く望むのだぞ…。"っと。
続く