第九章「初恋」第百七十五話
サートゥルナーリア祭七日目 夜。
私は嫌われたくなかったんだ。
なぜかパッラスだけには、出会った時のままでいたかったのかも。だからムキになるし、自分のことしか考えられなくて謝っちゃった。それも相手のことなんか全く考えられず。
「フェリックス!」
「あ、アグリッピナ様!」
「パッラスはどこ?」
「確か、その辺にいたけど。井戸の方かな?」
「ありがとう!」
フェリックスはポカーンとした表情で見ていた。それもそのはず、私は駆け足で家中を探していたから。偶然って重なるもので、そんな時ほどパッラス見つからず、みんなに私が探しているのを宣伝していたようなもの。
「パッラス!!」
「?」
彼は冬なのに素手で水井戸から水を汲んで、その細い指先は真っ赤に腫れてた。私の声に反応するなり、よそよそしくなって、出来るだけ目を合わせないようにしている。でも私は敢えて、人の築いた壁を壊す事に徹し、どんな態度を取られても目を離さない事にした。
「こっちを見なさい、パッラス!」
「あ、はい。アグリッピナ様。」
彼は手を休め、出来るだけ私の顔を見ようとしたが、顔はおどおどしてて隙があらば私から逃げ出したいような気持ちに見える。
「あんた、フェリックス置いて逃げる気?」
「え?」
「昨日のこと、気にしてるんでしょ?」
「あ、いや…。」
「いずれ、このままだったらアントニア様の耳にも入るんじゃないかって?」
「…。」
パッラスは耐えきれず、私から目を逸らした。また、昨日の感情的で反抗的な態度になろうとしている。
「あたしを見くびらないで、パッラス。」
「え?」
「たかが言葉のあや、貴方の事を別にアントニア様へ告げ口するほどでも無いでしょう?」
「え、本当ですか?」
「当然じゃない。ガイウス兄さんにも口止めするし、ドルスス兄さんも味方だから平気よ。」
驚いてるパッラスは思わず膝を床につき、布を絞ったような顔で床にうなだれて感謝を表した。
「ありがとうございます!ありがとうございます!アグリッピナ様!」
「あら?まずは主人に謝るのが先じゃない?」
「あ、そうだった!本当にすみませんでした、口答えなんかしてしまい。」
「いいえ、パッラス。元はといえば、私の言葉が原因でした。貴方の立場を尊重せずに、自分の思っている事が正しい事だと思い込んだばっかりに。この間、ガイウス兄さんから同じ事で頭を叩かれて、血を流したばっかりなのにすっかり忘れちゃって。」
「…。」
「それとも奴隷の貴方にも頭叩かれて血を流してもらった方がいいかしら?」
「え?!何を仰ってるもですか?!」
「だって、あたし頭に血が上りやすいんですもん、フフフ!」
「そんな、やめてください!滅相もございませんよ!」
「バーカ、冗談に決まってるでしょ?」
パッラスは太陽のように輝いて笑ってくれた。そして照れ臭そうに目を合わせ立ち上がった。
「実は、俺が…ギリシャ語を教える奴隷の仕事を選ばないのは、もう一つ理由があるんです。」
「なに?」
「あんたにだけ…。アグリッピナ様、あんたにだけ教えたいからなんですよ。」
え?
「あんたにだったら、それこそアラトス王子と同じ言葉を教えたっていい。でも、他のローマの奴らなんかに誰が教えるもんか!」
「パッラス…?!」
「俺はあんたの桃を奪ったのに、アクィリアの為にくれた。俺が捕まった時も、アクィリアが死んだ時も、あんたは俺たちと同じ目線でいてくれた。」
やだ、どうしたの?!
「だからこそさ!俺はあんたには俺たちのように汚れて欲しくないんだ。あんたには俺を導いてくれる星であって欲しい。真夜中だからこそ、闇世の中でも輝く星に…。」
なんでドキドキするの?
パッラスの実直な表情が、私の少し火照った顔を真っ直ぐ見つめてくれてる。なんて凛々しい顔なの?
「どうしました?」
「ううん、何でもない…。」
だめ、目を逸らしちゃ。でも、見つめられると嬉しいのに恥ずかしい。身体全体が、葡萄酒を飲んだようにフラフラしてきた。いやだ、どうしよう?立ってられない。
「パッラス…!」
「アグリッピナ様?!」
いやだ、あたしったら。思わずパッラス抱きしめちゃった。胸板ってこんなに広かったんだ。恥ずかしい。ドキドキしてるの聞こえてらどうしよう?
「アグリッピナ様…。」
「パッラス…。」
私は今でもはっきりと覚えてるの。
多くの灯されたキャンドルで彩られたローマの夜、まるで吸い込むように互いを抱きしめ合いながら、生まれて初めて異性の唇に自分の唇を重ねた事を…。
続く