第九章「初恋」第百七十四話
サートゥルナーリア祭七日目 夜。
多くのロウソクに火が灯され、今までの騒々しさが嘘のように静まり返る。鎮魂歌ともいうべき贅沢な静寂さ。今の時代のように、派手な色で着飾り信仰心も薄れ、ただ時間を無駄に消費する騒ぎ方とは違っていた。
「うう、寒~。うん?アグリッピナ?」
「あ、ドルスス兄さん。」
私は兄カリグラのキツイ一言が気になって、魂を抜かれた猫のように窓辺から外を眺めていた。
「お前、どうしたんだ?」
「ちょっと…。外を眺めていたの。」
「そっか。」
「今日はお祭り最終日でしょう?いくつものロウソクがゆらゆら揺れているのが見えてて。」
「うん、とっても綺麗だな。」
「綺麗?そうかしら…。」
なんかため息。
でも、交じるのは白い息。
「うん?どうした?」
「ドルスス兄さん、あのロウソクの火には金持ちのもあれば、貧乏人の火もあるし、解放奴隷の火もあれば戦争捕虜奴隷を殺した人の火もあるのに、どこが綺麗なんでしょう?」
ドルスス兄さんは、随分と返答に困ってた。
「なんだか今夜は、だいぶストア派のセネカみたいな言い方だな。」
「セネカ?セネカって、あのおかしなセネカの事?」
「ああ、この間会ったんだ。今頃はエジプトだろうな。」
「エジプトか…。」
「もっともっと哲学の勉強するってさ。」
「そう…。」
みんなすごいな。
何だか自分だけ取り残されている気分。
「ガイウスに、なにか言われたのか?」
「え?ドルスス兄さん、何で知ってるの?」
「あははは。実はあてずっぽうだ。昔からアグリッピナが落ち込む事といえば、大抵ガイウスと喧嘩した時だからな。」
ふぅ…。
そんなんだったら、ここまで落ち込まないもん。兄カリグラの言った言葉に、妙に説得力があったから、なんかモヤモヤしている。
「ドルスス兄さんは、奴隷には絶対に謝らない方がいいと思う?」
「その事を…ガイウスに言われたのか?」
「うん。"人の憎しみはお前が頭下げた所で消え去るような、そんな甘いもんじゃない。"って言われた。」
「パッラスと喧嘩したのか?」
「そう…。」
ドルスス兄さんは勘が鋭くて、直ぐに私の悩みを感づいてくれる。どうやらドルスス兄さんはパッラスが普段とは違う雰囲気に気が付いていたみたい。
「そうだな、お兄ちゃんだったら謝り方を気にするかな?」
「謝り方?」
「アグリッピナは、奴隷の生活をしているパッラスが哀れだと感じたから謝ったんだろう?」
「うん、そうよ。」
「では、両親が健在している奴隷から『アグリッピナ様はお父さんを幼い頃に亡くしてるから、たとえ皇族でも哀れに思います』って謝られたらどうだろう?」
カチン!
「ドルスス兄さん!?どうしてそんな酷いことを?!」
「物の例えだ。」
「例えでも!私のお父様が亡くなった事で、何で奴隷から憐れみを受けなければいけないわけ?!」
「なぁ?怒るだろう?」
あ…。
「きっとパッラスだって、自分達を救ってくれたアグリッピナから、一番自分が気にしている事を言われたくなかったんじゃないかな?」
「二人を、憐れみに思う事を?」
「ああ。だけどお互い人さ。階級が違えど、しゃべって意思疎通ができるわけだ。きっと正しい謝り方は、お前の大好きな大母后リウィア様が、既に教えてくれたんじゃないか?」
大母后リウィア様ならどうするか?
確か…同じような事があったような。あれはリウィア様のスパルタ教室に通ってた頃、用心棒のクッルスとセリウスが育ったインスラでリウィア様から頂いた桃を盗まれた時、その答え方を訂正されたっけ。
"アグリッピナ。ここローマに住む人達は上下階級共にプライドの高い人ばかり。一つの失言が、その人の運命を左右する事だってあるのよ。自分の虚栄心を満たす為だけの行動は、いずれ多くの人々に反感をくらい、自分の命を脅かす事になりかねない。だから、感情に任せて自分を見失ってはダメ。"
そうだった。
奥歯を噛み締めて、大理石のように心を落ち着かせないといけなかったんだった。
「ドルスス兄さん、教えて。」
「うん?何を?」
「今、パッラスはどこにいるの?」
ドルスス兄さんは少し目を閉じて、頷いて、そして何も言わず微笑んで下を指差してる。私は嬉しくなってドルスス兄さんの頬に三回キッスをして、急いでパッラスのいるところへ向かった。
続く