第九章「初恋」第百六十八話
サートゥルナーリア祭六日目 夜。
バターといえば、ラテン語でバティルウムという牛のチーズを意味する。皮製の袋に生乳を入れ、棒で周りから打って揺すって作っており、主にガリアなど北部での蛮族が使っていた。私達といえば、この頃の時代の主流の油はオリーブなので、長持ちせずに溶けてしまうバターを使う事はなく、白塗りと合わせた化粧品として使う事が多かった。
「ジュリアがバティルウムを?」
「ええ、バターは乾燥した肌には良いのかもしれませんが、やっぱり私達からすると食用油として使うのが一番ですよ。」
「あー、ガリアの北部だとオリーブが中々手に入らないのもあって、そこで私達はバティルウム、バターを食用油として使ってるんです。」
「ヘェ〜。」
やっぱり寒い地方とこっちでは気候も違うから、油一つとっても全然違うんだなって思った。
「きっとバターを今夜使えば、とろみが増していいかもね。」
「あー、でもリッラ、バターとオリーブでは感触が違うんじゃない?」
「そこは他のガチョウの身体を細かく刻めばなんとかなるものよ。」
「あー、例の如く華やかな料理で持たせるパターンね?」
「そうそう!」
ケーナという夕食の晩餐は、とりわけ美味しさよりも、豪華絢爛な華やかな料理をもてはやます傾向にあったが、それは私達が后妃になってからの話。当時はまだまだ慎ましい食事の名残が残っていて、事実、初代皇帝アウグストゥス様は、生活事態とっても質素で、贅沢とは程遠い習慣をお持ちだったのは、節度の問題ではなく、単純にローマ国家が帝国名義として支配し、まだ間もない頃という時期でもあったから。大母后リウィア様の話では、アウグストゥス様は葡萄酒を水で割っても三杯飲めればいいほどの、下戸だったらしい。
「そうなるとここまできたら、当然カタツムリもバター焼きで周りを埋め尽くすのもてだよね?」
「あー、そうだね。ガーリックもあえてみたらどうかな?どうせアントニア様が給仕されるんだし、私達の出身の料理でもてなすのも手かもしれないね。」
二人がガリア出身の解放奴隷。
しかしその彼女達の舌はローマ人達をうならすほど、味には長けていた。ひょっとしたら皇族お抱えの料理人にもかなわないほど腕前かもしれない。とにかく、料理の見た目だけを重要視するローマ人の舌を、意図も簡単に唸らせてしまうのだから。
「カタツムリの貝殻は全部取ったかい?シッラ。」
「あー、アグリッピナ様の分がまだまだ残ってますね。」
「ごめんなさい、リッラ。カタツムリってネバネバしてなかなか取れないよ。」
「シッラ!アグリッピナ様、手で直接取ろうとしてるじゃないか!ダメだって。」
「ええ?!手で直接取っちゃダメなの?」
「あー、私達は慣れているからいいですけど、アグリッピナ様は皇族の方ですし、お綺麗な手が荒れてしまっては台無しです。」
「そっかなぁ…。」
「あー、そんなもんです。」
確かにカタツムリのネバネバが乾いてくると、痒くなってきた。すぐに手を洗浄してもらい、手伝うのなら必ず手を汚さない食器を使った方法をする様に進められた。
「貝殻の取り方をアグリッピナ様へ教えてさしあげな。」
「あー、はい。アグリッピナ様、この二つの食器はご存知ですよね?」
「うん、スプーンのリグラとフォークのコクレアルでしょ?」
「あー、実際に晩餐でもお使いになってらっしゃいますもんね。先ずはカタツムリの貝殻を、こうやって…スプーンのリグラで抑えながら、真っ直ぐコクレアルで押し込んで、捻じる様に取り出すと、ほら、こうやって出てきます。」
「うわ!凄い。」
見事にコクレアルの先にドロドロしたカタツムリがうねりながら取れていた。それをシッラは器用に生乳の中へポイっと入れて、新しいカタツムリを手に取る。
「あー、慣れてくると、貝殻を左手で持ちながら、コクレアル一つだけで取り出すことも…ほら!できるでしょう?」
「おおお!さすがシッラ!」
「アグリッピナ様、シッラの元々いたガリアの中北部の地域では、カタツムリの生産が盛んで、幼い頃からそれをやらされるんですよ。」
「ヘェ〜。何気に凄いんだね。」
シッラやリッラの指先を眺めていると、結構肌も指先もカサカサで、何度も皮が剥がれた後が生々しく残ってる。そっか、彼女達は幼い頃からやらされているんだ。そんな些細なことでも、私とは階級が違う人達の生活があるんだと実感した。
「あー、アグリッピナ様。カタツムリは私がちゃっちゃかやっちゃいますんで、申し訳ございませんが、カタツムリの入った生乳の、とろみをなくす為にこのヘラで何度かかき混ぜてくれませんか?」
「勿論、そこにあるチーズもバンバン入れちゃってくださいね!」
「はーい!シッラ様、リッラ様!」
そう、今だけは解放奴隷と身分がいれ違うことが許されたサートゥルナーリア祭だもん。料理を楽しまないとね!
続く