第九章「初恋」第百六十六話
サートゥルナーリア祭六日目 朝。
「えええ?!一体どういう事よシッラ?!何で豚がガチョウになってるのよ?!」
「あー、完全に養殖場の主人アキニウスが間違えたのよ。」
「どうするのよ?今夜はサートゥルナーリア祭六日目の宴会よ。」
なんだか解放奴隷のガリア出身の料理人リッラとシッラが、朝から忙しなく話している。私はみんな寝ていたのに、リッラの大きな声で起きてしまった。そういえば今日はサートゥルナーリア祭も六日目。残すところ後一日しかないもんね。
「ふぁ~。おはようリッラ、シッラ。」
「あら、アグリッピナ様おはようございます。」
「あー、アグリッピナ様おはようございます。」
「リッラの声が大きくて起きちゃったよ。」
「あわわ、申し訳ございません、アグリッピナ様。」
「別にいいけどさ、何か困ってたみたいだけど、どうしたの?」
二人は困り果てた顔を見合わせて説明してくれた。
「実は今夜は豚をメインにした料理にするつもりだったのですが、養殖場の親父であるアキニウスが間違えてガチョウをよこしてきたんです。」
「ガチョウ?!あの飛べない鳥?」
「それはニワトリですよ、アグリッピナ様。本来ガチョウは元々ガンを人間が食用にしたもので、昔は飛べていたそうですよ。」
「へぇー。」
「あー、ガチョウの食用の歴史は既にエジプトでは大昔から家禽化されていて、ガリアでもよく私達は食べていました。」
「そうなんだ~。でも、それだったら、その養殖場のアキニウスに文句言って豚に取り替えてもらえばいいじゃない?」
しかしシッラとリッラの顔は、私が適当な提案をして解決できるほど、事態は容易ではない事を、さらに困惑しながら物語っていた。
「どうしたの?」
「いえ、実はもう養殖場には豚が一匹も残っていないんです。他のお店に行っても売り切れでして…。」
「ありゃりゃりゃ。」
「あー、しかも昨日アントニア様から変な相談を受けましてね。」
「変な相談?って何?シッラ。」
「あー、豚の肝臓をメインで出してくれと。」
「肝臓?!」
「いわゆる肝ってやつですよ、アグリッピナ様。」
今でこそ、ガチョウの肝臓も脂で焼いて食べるようになっているが、私が幼い頃の肝臓料理といえば、干しイチジクをたんまり食べさせた養殖の豚の肝臓が基本だった。ガリア人が連れてきたガチョウの肝臓を食べるなんて前代未聞。
「シッラ、誰だっけ?あの裕福な貴族の…。この間、アグリッピナ様の頭の怪我を治された…。」
「あー、確か…。」
「あ!コッケイウス氏族のネルウァ様?!」
「そうです!アグリッピナ様。その方の提案でしたよ。何でもその方は、普通の食事じゃ満足しないから、できるだけ豚の肝を食べていたいとか。」
豚の肝臓を料理にしたものといえば、こしょう、タイム、ラヴィッジをすり潰し、葡萄酒に魚醤のガルムを添えて、アシで薄切りにし、月桂樹の実を二粒すり潰し、網脂でくるんであぶり焼きにするのが常だった。
「豚の肝臓って美味しいよね~。私は何度でも食べちゃう!」
「アグリッピナ様は豚の肝臓料理大好きですよね?」
「あと何だっけ?豚の腸に肉詰めた…。」
「ゲルマニアから伝わるソーセージのサルススですか?」
「そうそう!塩漬けのサルススも、見ているだけでもヨダレが垂れてきた~。」
「あははは!アグリッピナ様は本当にお肉が大好きですよね~。」
確かに私の食事に対する姿勢は本当に偏っている。牛肉豚肉は当然大好き!特に豚肉の乳房と肝臓は大好物!意外に好きなのは、新鮮なお魚や魚介類。サラダはそこそこ好き。苦手なのはエンメル麦でできた平たい丸いパン。
「あたしはアントニア様のドムスで暮らすようになって、小麦のパンが食べられて幸せだったの!」
「エンメル麦って、パサパサしてますからね。」
「あー、あれは麦も腐りやすくて、小麦の方が高価ですが健康にはいいですよ。」
エンメル麦のパンって何とも胃の奥まで押し込められる気分で、幼い頃残してはお母様によく怒られていたっけ。最近は小麦のパンを、卵やチーズ、蜂蜜やラッカーと共に食べれるようになってきた。エンメル麦って、なんであんなにマズイんだろう…。
「ガチョウの料理で一番といえば、茹でたてのあたたかいガチョウに冷たいソースと添えるのが一番なんですけどね。」
「あー、アピキウス風冷たいソースをたっぷりね!」
「アピキウス風の冷たいソース?」
「ええ!アグリッピナ様。そのソースはコショウ、ラヴィッジ、コリアンダーの種、ミント、ヘンルーダをすり潰し、魚醤のガルムと油を少量注いでよく混ぜたものなんですよ。」
「あー、その後にガチョウはやけどするくらいに茹でて、熱いうちに付近で水けを取って、そのアピキウス風のソースをかければ出来上がりです。」
私は想像しただけでもヨダレが垂れてきた。
「うわ!それはとっても美味しそうね!今夜のガチョウ料理はそれにしましょうよ!」
「でも、アグリッピナ様。アントニア様から言われてますからね…。」
「あー、今から豚も取り替えられないですし。」
「そっか、残念だな…。」
シッラとリッラはさすがにため息を吐いていた。そこで私はいつものノリで適当な提案をしてみた。
「ねぇねぇ、シッラにリッラ?どうせならガチョウの肝臓を脂で焼いて豚の肝臓として出したら?」
「えええ?!」
「あー、アグリッピナ様、それはいくらなんでも無茶ですよ!」
「そうかな…?」
「当然ですって!豚の脂とガチョウの脂ではやっぱり違いますって。」
「でも、ガチョウの肝臓を脂で焼いて食べたら、意外に美味しいかもよ。」
するとリッラはガチョウの首を掴んだままジッと睨んで、ロバの牛乳に蜂蜜をいれたものを睨んでいる。
「シッラ。このガチョウを養殖した主人のアキニウスは、干しイチジクを大量にガチョウに喰わせたって言ってたのね?」
「あー、豚の養殖と間違えたって言ってたわよ。」
「いけるかもね!」
「えええ?!」
「ここは一つ、アグリッピナ様の提案に乗ってみましょう!」
こうして、前代未聞のガチョウの肝臓を脂で焼いた料理への探求が始まった。
続く