第九章「初恋」第百六十四話
サートゥルナーリア祭五日目 夜。
「ええええ?!アグリッピナ様なの?」
「そうよ、フェリックス。」
「う、うわーーー!」
フェリックスは本当に私だと信じられなくて、身体を震わせてビックリしていた。生まれて初めての化粧が、こんなにも楽しい事だなんて。
「なんか、見た目はお淑やかなのに、喋るといつものアグリッピナ様だなんて、何か変なの。」
「あら、フェリックスくん、そうかしら?しっかりとした心構えを持ってとお話しすれば、優雅な時間を演出する事だって出来るのですよ…。」
「あ、あああわわ。誰…ですか?」
フェリックスはからかうと本当に面白い。自然と彼は礼儀正しく私に接するようになっていった。すると、遠くの方からお兄様達がやって来た。
「うん?どこの属州の女の子だ?」
「とっても上品で綺麗ですね、ネロ兄さん。」
「ああ、あんな娘いたっけか?」
私はさらに面白がって、お兄様達に他人行儀でお話しかけた。
「おや?ユリウス氏族のネロ・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス様に、ドルスス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス様でしょうか?初めまして。」
「はは、私達兄弟の事、存じ上げてましたか…。初めまして。」
「どうも、初めまして。ゲルマニクスの息子です。」
「ご聡明なお二方にお会いでき、心より大変光栄です。今宵はとても月が世界を一面に照らし、お二方の出逢いを祝福されているのでしょうね。」
「ああ、はい。そうだと良いですね。あはは…。」
しかしドルスス兄さんは、どうも歯切れが良く無くて、不可思議にこっちを見ながらネロ兄さんへ耳打ちしている。
「ネロ兄さん、この娘誰なんだろう?自分の事を全然名乗らないですよ。」
「うん…。本当だな。しかし、聞くに聞けないよ。」
「兄さんは成人迎えたじゃないですか、ちょろっと聞いてみてくださいよ。」
全部筒抜け。
何とも面白いので、このまま騙し続ける事にした。
「ところで、貴女はどちらかいらしたのですか?」
「これはこれは、自分の事を語らずに、大変失礼なご挨拶になってしまった事をお許しくださいませ。私は遥か東方にある小国から参りましたアニピルガでございます。」
「アニピルガ…さん?ですか。」
「はい。ギリシャ語やラテン語ではいささか発音が難しく、何とも名乗るのに億劫になってしまっていました。」
「はぁ、そうでしたか。それはそれはアニピルガさん。」
「アニピルガさんは、東方にある小国からいらしたんですね。」
「はい。」
アニピルガは、アグリッピナの文字を逆さまにしただけ。私は完璧に兄さん達を騙し続けられる確信をしていた。カリグラ兄さんがやってくるまでは。
「おーい!ガイウス、こっちおいでよ。とっても綺麗なアニピルガさんて女の子がいるぞ。」
「はぁ?」
「何でも、東方にある小国からいらしたらしいぞ。」
「アニピルガ?はぁ?」
私はカリグラ兄さんにゆっくりと身体を振り向いて、優しい微笑みを携えて頭を下げると、突然笑われてしまった。
「キャハハハハハハ!ネロ兄さん、ドルスス兄さん、とんでもない女の子を捕まえましたね?」
「え?!」
「お前、ガイウス!彼女に失礼じゃないか!」
「ええ?全然気がつかないんですか?兄さん達は。」
「はぁ?」
「そこのお淑やかな皇女を演じている女は、僕らの妹でおたんこなすのアグリッピナですよ。」
「えええ?!」
「はぁあああ?!」
ネロ兄さん、ドルスス兄さんは私の顔を何度も覗きながら驚愕していた。
「もう!ガイウス兄さん!おたんこなすは余計でしょ?!」
「ガイウス!お前、どうして分かった?」
「そうだよ!どうして?」
「え、だって身体つきとかちゃんと見ればアグリッピナそのものだよ。」
カリグラ兄さんは、さすがに演技とか好きだから見抜くのが早いのかもしれない。
「大体、アグリッピナはどんなにお淑やかになっても分かるって。そのでっかいお尻が目印さ。」
「ああ!ガイウス兄さんのエッチ!もう!」
なーんだ、結局私のお尻で判断したのか。カリグラ兄さんらしいな。褒めて損した!もう!
「それにしても…本当にアグリッピナは、化粧だけでこんなに変わるとは。」
「えらい変貌ですね、兄さん。」
「ああ。」
すると、アントニア様に一時的に引き取られている属州国の王子達も次第に集まり、私の変貌ぶり、いや美貌にため息混じりで関心を寄せはじめている。
「あの子、アグリッピナ様らしいよ。」
「ええ?全然印象が違うじゃん!」
「うわー、女神ウェヌスみたい。」
なんと気持ちの良い事なのか。人からの注目というのは。私は不思議と背筋をピンっと伸ばしている。その中には、もちろんあのアラトス王子もいた。どうしよう?私って分かるのかな?嫌われてないかな?
"いつでも心は優美でありなさい、アグリッピナ。『心の乱れは、己の醜聞を招く』分かりましたか?"
"はい!"
そうだ、大母后リウィア様も仰ってたじゃない。心の乱れは、己の醜聞を招くと。まさに昨日の私はそうだったじゃない。心は優美であれば、賢くある事ができると。うん、アラトス王子にもう一度認めてもらうため、頑張らないと!私は大母后リウィア様から教わったギリシャ語を、しっかりとしたフォルムと共に身体で表した。
「ネロお兄様、ドルススお兄様。先ほどのご無礼をお許し下さいませ。本日、この様な姿になりました理由には、実はこのアグリッピナ、一つの妙案を携えて参った所存でございます。」
「はぁ、そ、そうですか。」
ドルスス兄さんは慣れない言葉に困惑していた。ネロお兄様は、さすがに公務に携わるものとして、顔つきを変えて聞いてくださっている。
「その妙案とは、再度、このアグリッピナとサイコロ賭博に興じていただきたく、心よりお兄様達へ懇願しに参りました。いかがでございましょう?」
するとネロお兄様とドルススお兄様、何故かカリグラ兄さんも手を叩いて賞賛してくれてる。そして、ネロお兄様が、公務でお使いになっている流暢なギリシャ語を披露してくれた。
「我が妹ユリア・アグリッピナよ。貴妹の滑らかで優雅な佇まいには、このネロ・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス、深く感銘を受けずにはいられない。むしろ、貴妹のその妙案に己の名が載っていた事に、感謝すらしたい。喜んでサイコロ賭博に参加するとしよう。」
私はゆっくり頭を下げると、今度はドルススお兄様も咳払いしながら、ギリシャ語を話し始めた。
「私もだユリア・アグリッピナ。貴妹の実兄として、その妙案に深く感謝をすると共に、一分の魂にも全力を持って闘うが如く、貴妹とのサイコロ賭博に投じる事を誓おう。」
アラトス王子は私を見つめてくれてる。今まで以上にとても魅力的な笑顔を向けたまま。そして、彼が再び私に賭けてくれる事を、心から確信できた瞬間でもあった。
続く