第九章「初恋」第百五十四話
「お、お母様…?」
「ガイウス、あなたは自分で何をしているのか、わかっているのですか?!」
気が付くと、賓客達も何事かと集まってきた。頭から流血しているせいで、私の視界は段々と悪くなっていくなか、母親ウィプサニアはなんと、賓客の前でカリグラ兄さんを堂々を叱りつけて頬を何度も叩いた。
「アグリッピナ様!」
騒ぎにいち早く気が付いたパッラスが、慌てて私を抱えて寝室へと運んでくれた。私はフラフラはしないけど、耳元では大量の血が流れる音が聞こえてくる。
「大変だ!こんなに血が出てる。」
「うん、大丈夫だよ、パッラス。」
すると兄カリグラにつけられた唾を、パッラスは服の布で綺麗に取り除いてくれた。その心配そうな表情と慌てた姿に、私はパッラスへ感謝の言葉を伝えたくなってきた。
「あ…。」
「パッラス。」
「は!ウィプサニア様、何でしょうか?」
「宴会にいるネルウァ様に伝えなさい。あの方なら解放奴隷の専門医師を常に連れてるから。後は私がアグリッピナを見ます。」
「は、はい…。」
するとパッラスは一目散に医師を探しに外へ出る。その後ろ姿を見送った母ウィプサニアは、ゆっくりと近付いてくる。いつもの何を考えているのか分からない表情で。
「…。」
私は怖くなって、少しだけ座りながら後退りを、母に気付かれない様にした。だって、またきっと怒られるのだろうと。母は右手をスッと差し出して頭の傷口を見ようとしたが、とっさに私の身体が反射的に拒否をしてしまった。ほんの少しだけ寂しそうな目つきで、母はゆっくりとため息をついて話し出す。
「傷口を見せてご覧なさい。」
「…。」
母は傷口を見ながら止血をしてくれた。さっきよりは出血が弱まってきた感じがする。
「顔は怪我していない?」
「はい…。」
「そう、良かった。」
久しぶりに…。本当に久しぶりに、母の横顔を間近に見つめると、意外に目尻や口元に微かな小皺が刻まれている。それは笑い皺の様にも繋がって見える。そっか、私には冷たい母だけど、笑っている時もあるんだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないです。」
「そう。」
なんだか他人行儀な会話。
でも、母の横顔は口元を緩ませて微笑んでいた。長いまつ毛の下に見える美しい瞳は、キラキラと輝いて笑みを浮かばせている。
「あなたも今年で七歳、来年は八歳になるのですね?」
「はい…。」
「顔は大切にしなさい。」
「はい。」
「今日のはガイウスが悪いわ。でもね、一つだけアドバイスさせて。」
「…。」
私はまたお説教か、って思った。
「例え貴女が正しくとも、ヤケを起こした男の力は手に負えないわ。だからね、アグリッピナ。口は災いの元って事だけ覚えておきなさい。」
私は母の穏やかな言葉に、妙に納得してしまった。でも、なんだか恥ずかしくて母の目を見る事ができなかった。母もまた、私を真っ正面から見る事はなかった。
「ウィプサニア様!ネルウァ様と医師をお連れしました。」
パッラスはマルクス・コッケイウス・ネルウァという老人と、アルテスという解放奴隷の医師を連れてきた。ネルウァ様は以前にも見た事がある。コッケイウス氏族の方で、ドルスッス叔父様の母親と再婚されたガイウス・アシニウス・ガッルス様と一緒に、母ウィプサニアに現皇帝討伐の為の資金提供を申し出た有力な貴族の一人。
「ふむふむ、軽く頭を切った程度じゃな。思ったより血が出ているけど、傷口は浅めだ。アルテス、治療してあげなさい。」
「はい、旦那様。」
解放奴隷の医師アルテスは器用に、温かいお湯で濡らした布で消毒して、前頭部の傷口を抑える為に、両耳と顎をふさぐ様に顔じゅうに布を巻いてくれた。
「ほほほほ、なかなか滑稽な巻き方じゃの。」
「え?」
「ほら、アグリッピナ。ネルウァ様にお礼を言いなさい。」
「あ、ありがとうございました。」
「いいんじゃよ。ウィプサニアの子供はワシらにとっても大切な大切な味方じゃ。何か困った事があったらいつでも言いなさい。」
私は黙ってお辞儀をした。
賓客達は各々宴会へと愉しみへ戻っていく。気が付くと、周りにはいつものメンバーであるジュリアとリウィッラ、そしてパッラス達が心配そうに私を眺めている。
「アグリッピナ様、大丈夫ですか?」
「お姉ちゃんいっぱい血が出てびっくりしたよ。」
「でも、コッケイウス氏族のネルウァ様がいらして、本当に良かったですね。」
「そうだね、パッラス。」
でも、私は賓客達と宴会へ戻ろうとする母の姿をずっと見ていた。母の一言が無ければ、私はまだ血を大量に流していたままかもしれない。その時、母ウィプサニアの偉大さを感じた。
続く