第八章「暗雲」第百四十五話
「ならば、ここにずっと留まってはいけない。」
「?!」
ネルウァ様は険しい顔で母ウィプサニアへ忠告した。アシニウス様も後に続くように頷いた。
「ワシらはアントニアとは個人的にはもちろん付き合いはあるのじゃが、それはあくまでも現皇帝への体裁じゃよ。しかしクラウディウス氏族より、幼い頃から迫害を受けてきたような君が、大母后と精通しているアントニアと合うわけがなかろう。」
母ウィプサニアの眉毛がクイっと動くが、それでもできるだけ冷静でいようと務めている。アシニウス様は静かに俯きながら、そして再び顔を上げて口を開く。
「去年亡くなった私の妻もずっと心配していたよ。母親は違えど、同じ父の血を受け継ぐ者として、ゲルマニクスを失ったウィプサニアはこれからどうするのだろうか?と…。」
母ウィプサニアは目を少し下に落として、感慨深く黙っている。
「できる事なら何かウィプサニアの力になってやれないか?出来ないのなら、せめてウィプサニアの歩く道を整えてあげられないのかと…。」
大きく瞬きをして、雨上がりの葉先に溜る水滴のように、大粒の涙が頬へこぼれる。それを見たネルウァ様は、心を握り締められるような思いをしていた。
「もう、一人で我慢しなくて良いのじゃよ、ウィプサニア殿。一人で肩に力を入れて生きる必要もないのじゃ。後は、このネルウァとアシニウスが、ウィプサニアの歩くべき道を舗装しようじゃないか。」
「これは何かの縁。せめて亡き妻の遺言を叶えさせてくれないか?ウィプサニア。」
母ウィプサニアは肩を震わせて、感謝の想いを大粒の涙で伝える。抱きしめてやりたい想いをぐっと堪えて肩に手を添えるアシニウス様に対して、抑えきれぬ哀しみに、ネルウァ様は目元の涙を手で抑えて堪えている。
「お二人の…陽に照らされた暖かい御心と、大理石を丹念に磨かれた様なお気遣いに感謝いたします。私もお二人がご指摘されたように、いつまでもお義母様の好意に甘えているのは、果たして良き事なのだろうか?と、常日頃思っておりました。」
鼻を啜り、母ウィプサニアは目元に涙を溜めながら、それはたいそうにお美しい顔でお二人に媚を売った。
「こんな私で良ければ、お二人のご好意に、甘えさせてもらっても宜しいでしょうか?」
「当たり前じゃないか!」
アシニウス様は元妻の面影を母に見たのか、堪らず涙を浮かべて抱きしめた。それを見ているネルウァ様も、安堵に包まれた笑顔を見せている。こうして、母ウィプサニアは、更なる後ろ盾を手に入れた。
「早速、ウィプサニアの為にティベリス河向こうに庭園のある別荘ヴィッラを用意した。そこを自由に使いなされ。」
「ありがとうございます、ネルウァ様。しかし…お義母様のここドムスを離れるのは来年ではダメでしょうか?」
アシニウス様は不可思議な面持ちで母の顔を見たが、ネルウァ様は目を閉じてじっくり考えて頷いた。
「その方がええじゃろう。物事は急の流れよりも、静かな動きを経て強固な物へと変わる。そして中には、変化を求めない人々がいる事も忘れてはいけない。我々はティベリス河よりも静かな流れを選ぶ事にしよう。」
「しかし…ネルウァ様、それではいつウィプサニアが危険に晒されるか分かりませぬぞ。引越しは一刻も早く進めるべきでは?」
「いいや、ウィプサニア殿の考えが良かろう。」
「だが…!」
ネルウァ様は非常に険しい表情を見せる。
「アシニウス殿、お主は自分の妻の面影があるウィプサニア殿と面会されて動揺されているだけじゃ。ご自分の心を自重なされ。ここのドムスは、あのティベリウスの弟の物である事を忘れてはおるまいな?」
「…。」
「それに、ウィプサニア殿の元夫のゲルマニクスは、皇帝ティベリウスの養子であったのじゃぞ。血は繋がらなくとも、ウィプサニア殿とティベリウスは形上親子の関係であるのだ。物事は常に慎重に進めなければならんのじゃろうて。」
「はい…。」
「では、我々はそろそろ退散するとしよう。そしてウィプサニア殿には、惜しまぬ援助をする事を約束しよう。」
その時、母ウィプサニアの口元が少しだけ緩んだように見えた。ネルウァ様は微笑んで、母の両手を握った。
「ワシはとても嬉しいのじゃよ、ウィプサニア殿。そなたが単なる夫を失った寡婦としてではなく、実に聡明で一つの目的の為に生きている事を知れた事に感謝すらしたい。」
そして耳元でこう囁いた
「大いに使いなされ、ゲルマニクスの名を…。」
続く