第八章「暗雲」第百四十四話
結局、兄カリグラの奇行は、母ウィプサニアが毎晩添い寝する事で解決され、二人の妹ドルシッラとリウィッラは、私と一緒に添い寝する事になった。兄カリグラがやたらとドルシッラの本音を聞き出そうとしていたのか、それらは有耶無耶になってしまった。
「おはよう、ウィプサニア。」
「おはようございます、お義母様。」
母と祖母のアントニア様が交わす言葉は、毎日たったこれだけ。食事の時間も赤ら様に時間を避け、通り過ぎるときもお互いに奴隷を盾のように視線を外させ、所詮他人であるという息苦しい空気の中で耐えていかなければいけなかった。そんな重たい空気を一変する出来事が、裕福な貴族の初老と共に訪れた。
「ごめんください。」
「あら?お久しぶりネルウァ様。」
「おおお!アントニア、元気じゃったかい?」
どうやら見るからに裕福な貴族の初老。後ろには、ティベリウス皇帝と同じくらいの男性を連れ添っていた
「ええ。今日は藪から棒にどうされたのです?」
「いや、ワシらウィプサニアに用があっての~。」
「ああ、そうですか。どうぞお上がりください、今呼びますので。」
アントニア様は、物凄く冷淡な表情でパッラスに母を呼ぶよう指示し、避けるようにご自分の部屋へ入られてしまった。
「ネルウァ様!」
「おおお!ウィプサニア殿、とても綺麗になられたの~、なぁ?アシニウス殿」
後ろにいた男性は、誰かを懐かしむような嬉しさに溢れていた。
「ええ。本当にネルウァ様がおっしゃったように、最愛なる妻そっくりだ。」
「え?」
母ウィプサニアを訪ねた二人は、57年前に執政官を務めた有力者の貴族マルクス・コッケイウス・ネルウァ様と、29年前に執政官を務めたガイウス・アシニウス・ガッルス様。そう、アシニウス様は、昨年亡くなられたドルスッス叔父様の母親ウィプサニア様の再婚相手だった。
「去年の葬式の時には話す機会が無くてね…。でも、若い頃のあいつと君は本当にそっくりだから、きっとティベリウス皇帝もビックリだろう。」
「知っていると思うのじゃが、アシニウス殿の元妻は、アウグストゥス様の命によりティベリウスと離婚させられたのじゃよ。」
「ええ、存じ上げておりました。共に同じ父親を持つ者同士でしたが、生前は一度もお会いする機会が無く、本当に残念でした。所で、今日はどういった御用でしょうか?」
ネルウァ様とアシニウス様の二人は顔を見合わせて微笑んだ。そしてネルウァ様は真剣な目指で答える。
「うむ、実はウィプサニア殿に提案と援助を差し上げたくてね。」
「提案と援助?」
「じゃが、その前に一つ確認もしたいのじゃ。あんたは…本当に共和政支持者なのかい?」
その質問に母ウィプサニアは無表情になった。
「これだけ騒がれているゲルマニクス神話に加えて、共和政支持者の貴族達と集会を開いておられるのだから、ワシらの耳にも容易にその噂は入ってくるのじゃが、その事だけが気になってのう…。」
ネルウァ様という初老の方は、その目の奥に隠した野望をギラギラとさせている。しかし母ウィプサニアもそれ以上に冷徹であった。
「もし、私がそうでないとお答えしたら、どうされますか?」
ネルウァ様とアシニウス様は再び顔を見合わせて微笑んだ。
「ワシらが確認したかったのはその事じゃよ。」
ネルウァ様はとっても心地の良い笑顔を見せ、アシニウス様も安堵されている。
「共和政支持者の連中は、この国家ローマを駄目にする人間達だ。彼らは見果てぬ夢を見て、リーダーのいない理想の世界を作ろうとしている。だが、歴史的に見ても、そんな世の中は存在しないじゃろ?」
しかし母ウィプサニアはそれでも何も答えなかった。
「ワシらネルウァ家が属するコッケイウス氏族は、ローマの中ではまぁまぁ財力はある方なのだが、上流氏族の連中には目の敵にされてのう。」
アシニウス様はネルウァ様に続いてお話しされた。
「それは、アシニウス氏族の私とて同じことなのです。実にティベリウスは嫉妬深い男でね、私が前妻と結婚した事で妬みがあるのだろうか?税金は上げるわ、職務は左遷に近い状態にさせるわ。」
その話を聞いている母ウィプサニアは、自然と眼差し安らぎが帯び始めている。
「それでもワシは57年前に執政官を務めてアシア総督となり、息子はティベリウス帝の重臣として今年補充執政官を務めているが、これは、"あくまでも"神君カエサル様に忠義を尽くすことが第一と考えているからなのじゃよ。決して神君カエサルの名を名乗るクラウディウス氏族に媚を売る為でも許容した訳でもないのじゃ!」
初老のネルウァ様は、クラウディウス氏族に対して非常にお怒りになられていた。当然、横にいるアシニウス様も静かに憤慨されている。
「だからワシらウィプサニア殿に確認したい。」
「返事によっては、私とネルウァ様で惜しみない援助をするつもりだ。」
「もう一度聞かせておくれ、ウィプサニア殿。そなたは共和政支持者ではなく、また彼らの傀儡でもなく、正当な神君カエサル様の血脈を引く者こそが、このローマ国家を統率するにふさわしいとのお考えをお持ちなのだろうか?」
「どうなんだね?ウィプサニア?」
それを聞いた母ウィプサニアは、突然聖母のような笑顔で答えた。
「アシニウス様、ネルウァ様。当然ではありませんか。」
「おおお!」
母ウィプサニアは鋭い眼差しで、二人へしっかりと自分の意見を告げる。
「神君カエサルのものは、カエサルのものです!」
続く