第八章「暗雲」第百四十三話
初めてだった。
少なくとも母の強烈な怒りで、私の心を粉々にされたのは。その時から、私と母には引き返せない大きな溝ができている事に気が付いた。
「あたしはあんた達子供の為を思って今まで一人で何もかもやってきたの!それを!それを!たかが五、六年位しか生きていないあんたに!真実などと偉そうになぜ言われなければいけないのよ!?」
蜘蛛の足の様に右指達を間開き、皮膚に浮き出ている指の一本一本の筋に、母の私への怒りがこみ上げているのが、はっきりと見えて取れた。
「アグリッピナ!あんた実の母に向かって真実などと随分とたいそう立派な言葉を使ったじゃないか?!ええ?!なら、馬鹿な話をしながらのほほんと生きているあんたを、矢面に立って戦って守っているのは誰かい?!え?!あんたかい?!それともあんたの大好きなドルススかい!?」
そこにいる殆どの人間を凍らせた。
ただ一人、目を瞑って静観されているアントニア様を除いて。
「あんたが自分の敵かも分からないような大母后になったつもりで、偉そうに達観してるふりをするよりも!私は大きな責任を常に背負っているわけ!!」
お母様は私を指で差しながら、見下すように高笑いを始めた。
「アハハハハハ!真実に目を背けていられるのは、あの人でなしに憧れているあんたの方だって事よ、アグリッピナ!それでもまだ軽々しく口走るのなら、どうぞ丸裸で今すぐ家族の縁を切って出て行きなさい!」
そして再び母は恐ろしい顔に戻って私を睨みつける。
「それが嫌なら!私の目の前で二度と偉そうな意見を述べるんじゃないの!あんたの粗末な命が語る真実なんて、私にはどうでもいい事なのよ!!」
言葉は鋭い刀。
私の心は砕け散った。全身の力が抜け、必死に妹達を抱きしめていた両腕さえも、ブラリと垂らすのが精一杯。気が付くとショックで私が涙で頬を濡らしている。滲む周りの世界は、程遠く自分の手からスルリと逃げて行くみたい。もうだめ。フラフラしてきて、立っているのもやっと。私は何もかも母ウィプサニアに言い包められ、素直に母が形作った長女という奴隷でいるしかないのだと思った。私は、私は、私の心や存在なんて、母が言う粗末な命でしかないのかもしれない。
「ならウィプサニア!私のドムスから出て行くのはお前の方よ!」
「?!」
「!!」
「お、お義母様?!」
アントニア様だ!
姿は私からは滲んで見えるけど、私を、私の為に…。
「今まで旦那を失った同じ経験がある女性同士として、目を閉じてあんたの今までやってきたわがままを黙っていたけれども、今夜こそはっきりと言わせてもらうわ!私の孫アグリッピナがあんたに言った事は、寸分たがわず正しい事よ!」
頑張って涙を拭いた。
母を正々堂々と叱りつけているおばあちゃんのアントニア様が、母によって粉々に砕け散った私の心を、一つ一つちゃんと整えてくれている。
「私の長男ゲルマニクスの名を利用して、真実から目を背けているのは貴女の方じゃない!政治的にゲルマニクスの名を利用する愚かな連中と手を組んで、やっている事と言えば確証もない皇帝ティベリウスによる暗殺説の立証ですって?!それが死者に対する、いいえ、あんたの愛する夫に対して冒涜とは、微塵も思えなかったのかい?!」
アントニア様は、腰に両手をついて怒り肩でさらに続けた。
「あんたが偉そうにアグリッピナに真実を語らせないのなら!私だってあんたにはこれ以上、息子の名を語らせる訳にはいかないわよ!いい?!ゲルマニクスはねぇ、あんたの夫である前に私の実の息子だったのよ!」
母ウィプサニアは私を見ながら歯を食い縛り、次第に目を落とし、うつむいていく。その下で、ガタガタ震えながらしがみついている兄カリグラ。
「今考えれば、ドルスッス様のお母様の葬式の時に、娘のリウィッラが言った事が本当の真実だったのかもしれない。」
憐れむような目で母を見つめるアントニア様は、堪らず寂しそうな声で質問した。
「ウィプサニア。ゲルマニクスが死んでから、あんたはまるで人が変わったよう。それとも…今の貴女が本当の貴女なのかしら?」
そしてお母様は、お母様は…。
両手を顔に当てて突然大泣きをしてしまった。周りの人間の心に引っかき傷を残すような、まるで葬式に雇われるユダヤ人の見窄らしい泣き女のように。母は恥も外聞もない露わな泣き声を上げて泣き出した。
「ウィプサニア…。アグリッピナはあんたの為に、健気にたった一人でローマに残ってくれたじゃないか。寂しい想いを我慢して、幼く甘えたい心を圧し殺して、あんたが息子のそばにいたいと言うワガママの為に…。」
だが、母ウィプサニアは狂犬のように噛み付いた!
「ワガママですって?!私だって家族の誰一人とも離れず、私の可愛いアグリッピナとも一緒に過ごしたかったですよ!それをピソやセイヤヌスやティベリウスは!私の揚げ足ばかりとって相手にせず、さらに女狐の大母后リウィア様の気まぐれによって!母としての私と娘としてのアグリッピナを引き裂いたのですよ!」
アントニア様は、噛み付くような勢いで泣き叫んで訴える母ウィプサニアの姿に、一瞬おののいた。
「その時にお義母さんは何ができたのですか?!ええ?!ただ大母后様の言葉に従っただけじゃありませんか?!自分の孫を可哀想と思うなら、どうしてあの時に!私とアグリッピナの親子の関係を引き裂くような事に加担せず、必死に訴えて下さらなかったのですか?!!」
お母様…。
これがずっと私にひたすら隠していた、母ウィプサニアの微かな私に対する愛情だった。私を一人だけ残して、ローマを離れる時のあの時の、優しかった頃のお母様の姿が蘇る。
美しい笑顔。
目尻に涙をためながらも、必死にこらえるお母様は大理石のよう。
"アントニアお婆ちゃんのブドウの木は貴重だから、木登りしないでね。"
"はい…。"
"大母后様の言う事は、しっかりと聞くように。"
"それと…。"
突然お母様は私を抱きしめて、わんわんと泣き出した。私はとっても泣きたかったけど、我慢してお母様の頭を撫でた。
"ユリア、本当にごめんね…。"
子供のように母を忘れてわんわん泣いたあの涙は、母ウィプサニアの悔しくて悔しくて堪らなかった涙だったんだ。
「お母様、ごめんなさい…。」
アントニア様は堪えて涙を流した。ドルスス兄さんも涙を流していた。すれ違ってしまった私と母の関係を憐れんで、哀しんで、みんな泣いてくれた。私もクシャクシャになった泣き顔を、必死に片手で隠しながら、何度も何度も寂しさばかりを呪うように、声を殺して泣いていた。でも、二度と母とはあの頃に戻れなくなっていた。
続く