第八章「暗雲」第百三十七話
だが!
ドルスッスは見抜いていた。矢のように放たれた杖を避け、円柱に突き刺さった杖をすぐさま奪い、見事な槍さばきで、お飾り軍人では無い実力を見せる。
「束になってかかってくるが良い!貴様ら全員を、国家ローマの法の下において裁きを下してやる!」
教祖は慄き、自分の信者へドルスッスへ再度襲いかかるよう指示をした。だが、ドルスッスである。一人一人の持つ短刀を見事に弾き飛ばし、戦地で重ねてきた経験をあてつけた。
「グッ!!」
「何人たりとも、私を邪魔する者は、その命に限りがある事を知ることになるぞ!」
教祖はトゥクルカの仮面を被ったまま逃げ出そうとした。だが、一瞬の隙も見逃さないドルスッスは、キメラの偶像へ己の短刀を投げつけ、教祖への歯止めを効かせた。
「敵前逃亡か?"隊長"さんよ。戦で背を向けて逃げれば死を意味する事を、まさか皇帝へのゴマすりで忘れてしまったのではなかろうな?」
ドルスッスの発した言葉に、信者達には更なる動揺が広がる。そう、ドルスッスには、この教祖が何者かであるかおおよそ検討がついていたのだ。
「ククク!ドルスッスよ。この状況下において、己の立場が一枚上手であると言いたい所なのだろうが、実際には違うぞ!」
「果たしてそうかな?"隊長"さん。」
すると、ドルスッスの引き連れてきた部下達四人がようやく到着した。彼らは短刀を出したまま、各円柱に陣をとり、密教トゥクルカ全員を取り囲んだ。
「あがきは無用だ!」
「おのれ!!!」
だが、最後の手段に出たのは教祖の方であった。キメラの偶像の足元を叩き壊すと、凄まじい騒音と共にあたり一帯のアーチが崩れ落ちていく。
「ドルスッス様!」
「クソ!奴を!教祖を絶対に逃すな!」
二度、三度、四度、そして何度も崩れ落ちたアーチから、勢いよく泥水が吹き出してくる。教祖がキメラの偶像を登りいく中で、部屋全体は徐々に泥水が貯まり始めていく。逃げ惑う信者の波に襲われたドルスッスは、教祖を捉える事ができないでいるが、その隙にまんまと教祖は天井にある隠し扉まで辿り着いた。
「ドルスッス様!このままでは危険です!」
「一先ず地上へ避難しましょう!」
「ダメだ!奴を捕らえるんだ!」
しかし、教祖はトゥクルカの仮面を被ったまま高笑いしていた。眼下には溢れる泥水で右往左往している信者達と、こちらにたどり着けずにいら立っているドルスッス。教祖は再び高笑いして言い放つ。
「ドルスッスよ!我が密教トゥクルカへの侮辱は決して許されぬ行為!貴様はトゥクルカ地下の悪魔の呪いによって、いずれその命を奪われるだろう!」
「待て!セイヤヌス!」
だが教祖は高笑いしたまま、その隠し扉から逃げ出してしまった。暫くすると、被っていたトゥクルカの仮面だけが投げ捨てられ、氾濫していく泥水の水面に浮かんでにやけている。
「クソ!」
「ドルスッス様!」
さすがにこれ以上は危険である事を感じたドルスッスは、自分達の部下達に連れられてその場を後にした。紅蓮の炎までもが崩れ落ちたアーチによって消され、水位もドンドン上昇していく。足速にドルスッス達は階段を登るが、壁の至る所から泥水が吹き出しているため、なかなかさきへ進むことがままならない。足元からも水位の上がってきた泥水がじわりじわり蛇のように迫り来る中で、ドルスッス達は間一髪地上へ辿り着いた。
「?!」
キメラのあたり一帯が大きな地響きをし始めると、棺に隠された階段から信者達が次々と逃げ出してくる。ドルスッス達を待っていたクラウディウスは、その荒波に押されながらも懸命にドルスッスの帰還を待っていた。
「ドルスッス様?!」
「あ!クラウディウスさん!早く!この場から離れて!」
ドルスッスの言葉を素直に聞き入れ、一目散にキメラを後にするクラウディウス。ドルスッス達も泥水にまみれながら逃げ出した。ついに下請け業者キメラの建物は大きな音を立てて崩れ落ち、あたり一帯から泥水が浸水していた。呆然とその様子を見ている信者達。
「彼らは全員取り押さえてくれ。」
「分かりました、ドルスッス様。」
ドルスッスの部下達は信者達を次々と取り押さえていく。教祖の裏切りにあった彼らには、もうすでに抵抗する意思は失いつつあった。泥だらけになったドルスッスは、すぐ近くの噴水で泥を流している。
「すぐ横のティベリス河が流れてきたのでしょう。」
「ええ。地下はそれこそ乱雑で適当な突貫工事に、無造作にアーチで抑えられた壁はほとんど泥まみれでした。首謀者はきっとこんな状態に備えていたのだと思います。」
「なるほど、いつ国家が踏み込んでも一気に証拠の隠ぺいをできるよう、崩壊の工作までもしていたとは、用心深い首謀者のやりそうなパターンですね。」
「ですがクラウディウスさん、残念ながら首謀者を取り逃がしました…。」
「そうでしたか…。仕方ありませんよ、ドルスッス様の命があっただけでも感謝です。」
「しかしあの教祖がセイヤヌスである事は間違いないでしょう。その証拠さえあれば、法廷に引きずり出してやれるのに!」
「さすがのトカゲ。逃げ足だけは誰よりも早いのは確かですね。」
「ええ。」
静かに流れるティベリス河に、一羽の鷲が水面を這うように飛んでいる。
その横では、しくしくと泣き続ける泥まみれのエトルリア出身の信者達の姿があった。ひょっとしたら彼ら自身が、セイヤヌスの野望に利用されていた一番の被害者かもしれない。クラウディウスとドルスッスの胸に去来するものは、今回のこの事件が氷山の一角にすぎず、根深い復讐の連鎖を象徴するかのような悪魔トゥクルカの姿であった。
続く