第八章「暗雲」第百三十三話
キメラ。
ラテン語ではキマエラ。
テュポーンとエキドナの娘。ライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持ち、口からは火炎を吐くと言われている「牡山羊」である。
ドルスッスは、不正に膨れ上がっていた公共事業費の調査をする中で、「キメラ」の名を冠に持つ材木及び資材調達の下請け業者を見つける。エトルリア歴史の研究家であるクラウディウスに相談した結果、この社名はエトルリア語で巧妙に細工されたアナグラムであり、王政ローマ第五代王になったエトルリア人のタルクィニウス・プリスクスの愛称を指す「ルクモ」である事が判明。二人はローマ市内北東に居を構える下請け業者「キメラ」の調査に乗り出した。
「ここですね?クラウディウスさん。」
「みたいですね、ドルスッス様。」
「辺りの治安があまり良くない場所だ。隠れ蓑としては好都合なんでしょうか。」
「確かに…。」
北東ティベリス河付近に位置するこの一帯は、諸外国との貿易に力を入れている如何わしい商社が多い。道路整備もままならず、酷い所ではまだ沼地に近い状態の所もあった。
「河からの氾濫が起きた時には、なかなか乾きにくい場所なのでしょう。陽射しが悪すぎます。」
「あれ…ですかね?ドルスッス様。」
「ええ、クラウディウスさん。あのハゲワシ、蛇、驢馬と翼が描かれた円紋章に間違いありません。」
ドルスッスは十分に警戒しながら、周囲を見渡し、クラウディウスも脚を引きずりながらであるが、せめて足手まといにならぬ様注意した。
「私が先に訪問客の振りをして中に入ります。」
「いや、ドルスッス様では顔が割れてしまいましょう。ここは一つ、足に障害を持つ私に任せてもらえませんか?」
「クラウディウスさん…。」
「大丈夫、私は勇猛果敢なローマ人ではありません。危なくなったら降参するか、すぐに助けを呼びますから。」
「あははは…。」
クラウディウスは神妙な面持ちで「キメラ」の扉をノックする。だが、中からは何も聞こえない。ドルスッスは念の為に短刀に手を伸ばすし、クラウディウスに再びノックする様に頷く。クラウディウスもドルスッスに言われ、再度ノックをする。だが、一向に誰の気配も無い。
「どうしましょう?ドルスッス様。」
「参りましたね。」
「扉を開けますね?」
「はい…。」
ドルスッスはさらに注意深く短刀を握りながら、クラウディウスの援護に回った。
「では…。」
クラウディウスは、ソティエタスの扉を開けた。だが、中は誰もいなく、暗闇と蜘蛛の巣が覆いかぶさり、床は外と同じくタイルさえも敷かれていない泥だらけの地面で、時折ネズミなどが這いずり回っている始末。
「クラウディウスさん、誰もいないみたいですよ。全くの無人会社ですかね?」
「いや、そうでもないみたいですよ。」
クラウディウスはしゃがんで、這いずり回っているネズミを見ている。ドルスッスは不思議そうにそれらをみているが、どうやらクラウディウスが注目していたのは床の地面であった。
「これです。」
「足跡…ですか?」
「はい。それも、随分とたくさんの足跡が行き来しています。」
「うん?これはカリガの跡では?」
「この脇の部分は確かにカリガっぽいです。」
「うーん、するとこの会社は、下請け業者としての機能とは別に、何かの目的で使われている可能性があるという事でしょうか?」
「少なくとも材木やら資材調達というのは真っ赤な嘘でしょう。」
クラウディウスは立ち上がって、再度辺りを見渡した。すると、入り口の上の壁に何やら文字が並べられている。しかしラテン語では全くの意味が通じない。
「またアナグラムでしょうか?」
「やってみましょう、これもひょっとしたらエトルリア語かもしれません。」
クラウディウスは蝋板とスタイラスを取り出して、何度も蝋に刻むようにして、文字の入れ替えを行っていく。すると、やはりエトルリア語に辿り着いた。
「"我ら、一羽の鷲が主の帽子を持ち去り、その鷲が再び帽子を主に返す事を待つ。"」
「?…。何かの格言でしょうか?」
「いいえ、これは有名なエピソードをモチーフにしているのでしょう。」
「エピソード?」
すると、部屋の奥から何かの物音が聞こえた。二人は直感でここにはいない方が良い事を悟り、静かに扉を閉めてその場を離れた。二人はティベリス河を右手に見ながら歩き、ドルスッスはクラウディウスの話を聞いている。
「これもまた、王政ローマ第五代王になったエトルリア人のタルクィニウス・プリスクスに繋がるエピソードです。」
「またもやプリスクス王ですか?」
「はい。王になる以前、一羽の鷲がプリスクスの帽子を奪ったのですが、すぐにその鷲は彼に帽子を返しました。それを見た鳥占いは良い兆候であるとプリスクスに助言し、その助言に導かれるかの如くエトルリアからローマへ移り住み、エトルリア人として初めてローマ王になったのです。」
「なるほど。これで、明らかにあの『キメラ』という下請け業者がエトルリアに関係がある事がはっきりしましたね。」
「確かに、確かにそうなんですが…。」
「何か引っかかるのですか?クラウディウスさん。」
「はい。」
クラウディウスは河辺の緩やかな階段に腰掛けた。そしてドルスッスも、そばに手すりに腰掛けた。
「エトルリア人は今から108年前のユーリウス法に乗っ取って、ローマ市民権を取得してローマ人と同化したわけですが、何故に今更ながらエトルリア人初の王であるタルクィニウス・プリスクスのモチーフを、しかもあんなアナグラムを使って隠しているのでしょうか?」
「確かに、ラテン語でそのまま書いても問題なさそうな事ですしね。」
すると、二人の頭上に一羽の鷲が気持ち良さそうに空を仰いでいる。
「一羽の鷲…。」
「ですね、クラウディウス…。」
「一羽の鷲…。ドルスッス様、私はどうもこの一連のエトルリア人に繋がる事象が、現代の我々ローマ人には知られてはいけない何かを隠しているように思えてならないんです。」
「分かりました…。引き続き、クラウディウスさんは歴史的観点から調査を続けてください。僕は真っ正面から不正を摘発し、その過程で、この『キメラ』という下請け業者のバックを突き止めます。」
ドルスッスとクラウディウスは、さらなるエトルリアに関する謎を解くべく立ち上がった。
続く